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どうしたら前向きになれますか?

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初めまして。
最近仕事のことで落ち込んでしまいます。
どうにか前向きになりたいので、良い考え方があれば教えていただきたいです。

本日職場の先輩に、私の仕事の仕方について指摘を受けました。

その先輩は、最近私に対して態度がキツいように感じます。
以前はそんなことは気にしなかったのですが、私の心が以前より弱くなったのか、キツい態度に単純に悲しくなったり、恐怖を感じ、眠れない日がありました。

元々私は人より努力しないと人と同じようにできない為、これまでの失敗から他の人からのアドバイスだけでなく、自分なりに工夫と改善をして仕事をしてきました。

それ故、同じ失敗は無くなった為、そのことを私も先輩に伝え、結局話は平行線でした。

私の中で最近の先輩の態度について気になっていたからか、またどうでも良いことで文句を言われてしまったと思っていました。

帰宅後夫にその出来事を話しました。
普段あまり話を聞いてくれない為、愚痴などは詳しく話さないのですが、今日は聞いてくれました。

夫は、私にも悪い点があったとはっきりと指摘しました。

先輩の指摘と全く同じ点では無いものの、そこで初めて自分の過ちに気付き、急に恥ずかしさが込み上げ、そんなことにも気付かなかった自分に悔しくなりました。

自分の悪いところは分かっているはずなのに、夫が味方をしてくれない悲しさもあり、そんな悲しみを感じていることにも恥ずかしさを感じています。

休み明けに先輩に謝罪するつもりでいるのですが、先輩が私にとっていた態度や言いがかりのような指摘に対しては許せない自分も居ます。

しかし、この後に及んでまだ先輩のせいにしようとしている自分にも嫌悪する気持ちと、休み明けが来るのが不安な気持ちがあり、帰宅してからずっとそのことばかり考えてしまいます。

元々あまり落ち込むたちではなかった為、こんなに暗くなってしまった自分に戸惑っています。
何か良い考え方はありますでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

失いという考え自体がすでにマイナスなのでは?

牛乳で床を拭くという家庭もあるもんですが、多くの人は牛乳を床にこぼすのは汚れたとか、こぼれちゃったと考えるもんでしょう。うちのお寺は立派な宮大工さんが立ててくださいましたが、無垢の床を拭く際に仕上げにごま油と蜂蜜を刷り込むのだそうです。そういう知識を知らずにもし子供が綺麗な床にごま油と蜂蜜をこぼしたら多くの人はそれを失いと思うのではないでしょうか?
ところが、事実の上では床のコーティングの作用になっているものです。
人間が「自分の」価値・基準で眺めるから「自分にとって」の損ない・失われが心理作用として生じているのです。
あなたのその考えも「あなたの」ルール・設定・マイワールド上の損なわれでしかありません。深層心理に自分が傷つきたくない・損なわれたくないという心理があるのでしょうが、本質をよく見るべきなのです。そこに失われはない。
パートナーのご主人もあなたが今後同じことで傷ついてほしくないからこそ言うべきことを言ってくれたのではないでしょうか?逆にあなたが親友や子供がミスや他人に迷惑をかけていることを知りながら、相手から嫌われたくないからと言ってそれを見て見ぬふりをしたり、今後もよろしくないことを続けていくことを放置するのは愛のレベルとしてもどうでしょうか?
本当の愛とは善導の精神。相手のためにこびへつらうことなく相手がより高い人間性に向かうように言うべきことを言ってあげることなのです。これは鎌倉時代に生まれた道元禅師と言う方も言っておられます。
「布施と言うはむさぼらざるなり、へつらわざるなり。」
この「へつらわざるなり」という言葉に深い愛情と善導の精神があります。
相手が怖い相手だからペコペコした方がいいというのであれば、相手が不正や悪を犯しても迎合してぺこぺこするようになります。勇気のいることですが、相手のためを思って本当に必要なことを言ってあげることこそが深い愛情というものではないでしょうか?言い方が気に入らないということはあろうかと思いますが、それも実は家族愛よりも自己愛優先目線かもしれません。真にパートナー・家族となるためには時には相手が苦い思いをしてでも良薬を飲ませなければならないことはあるものでしょう。
よって、プラスになる、前向きになるためには、この上ない向上心(菩提心)をあなたが持つことなのです。
そうすると小さな損ない・失われがなくなるのです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがたいお言葉、ありがとうございます。
あれから2日経ち、冷静に考えると先輩にも夫にも、私の過ちについて指摘を頂いたことに感謝しなければという気持ちになりました。
例えば、先輩が見て見ぬふりをしていたら取り返しのつかない事態になることもあったかもしれません。
その前に改める事ができるのは大いにありがたいこどであり、自分を成長させるチャンスだと今は思っています。
丹下覚元様のおっしゃるように、マイナスとしか捉えなければマイナスにしかならないし、物事をプラスに捉えられるかどうかは自分の心の持ちよう次第ですね。
明日まずは先輩に謝り、感謝を伝えこれからのことを相談するつもりです。
お忙しい中、背中を押していただきありがとうございました。

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