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限り

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最近歌の歌詞などで、愛する人と一緒にいられる時間には限りがある、という歌詞がありました。私は疑問に思ったことがありました。それは魂が永遠ならばあの世に行ってから愛する人とも限りなく一緒にいられるのではないかと思うのです。皆さんはどう思いますか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「あの世」

こんにちは。
前回もご縁ありましたね。

「愛する人とも限りなく一緒にいられる」、そういう人との出会いは素晴らしいものです。あなたが現在そのような人とご縁があるのか、これからのご縁であるかはわかりませんが、そういう死後の世界にも希望を抱くのはとても大切な心だと思います。

仏教的な視点をちょっと述べて終わります。
仏教は「魂」という「永遠」、不変の何かを前提としません(諸行無常ですから)。

ただ、質問の主旨は「愛する人とも限りなく一緒にいられる」世界に行くことなのでしょう。では、あなたにとって「あの世」とは何でしょう。文字通り「あの」とは、どこか遠くにある何かという定まっていない意味だと思います。

わたしの仏教では、具体的に極楽浄土と言います。
仏様が必ず連れ往くまかせよ、と仰るから往くことが出来ると思っています。
そして、「倶会一処」、極楽浄土という一つの処で必ず出会えるとお経にあります。

あなたにとって「あの」を具体的にすれば、「愛する人とも限りなく一緒にいられる」ということはより現実的になると思います。

あとはあなたにお任せします。
では。

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おきもち

浄土真宗本願寺派報恩寺住職(兵庫県三木市) 本願寺派布教使 元本願寺布教研究専従職員 元龍谷大学講師 元篤志面接委員(法務省管轄) 真宗学修士、心理学学士 Fmみっきい(地元ラジオ局)出演中 趣味:サックス 2019年末頃から回答しています
応談できる時間帯は、その日によって違いますのでお確かめ下さい。 月曜日〜金曜日(祝日除く)13時〜21時 土曜、日曜、祝日 18時〜21時 お盆(8月1日〜15日)、お彼岸は対応できません。

限りと思うのもその時限り、永遠と思うのもその時限り。

YOASOBIのイクラちゃんではなくお寿司のイクラちゃんの話。
イクラちゃんの好きな人がいたとします。
イクラちゃんは実は一粒一粒が別々のイクラちゃん。一粒一粒が「オイノチちゃん」ですから、おいしいイクラちゃんをその子として頂戴できるのはその時限り、その人限りです。
実はごはんもパンも元々お米であり、小麦の粒ですから毎日食べている美味しいパンもお命としては別物なのです。そういう意味では限りがあるものですね。
同じく、お口の中でおいしく沈むように溶けていくように、たらこも明太子もとびっこもシシャモも以下同文。ですが、実は永遠でもあります。
欅坂も宝塚もセンターの命は有限ともいえましょうが、その時その時を完全燃焼したということでは永遠です。大切なのは死んでも生き続けている歴史的な偉人がおられますように、人々に「忘れられないような」生き方、生き様、心理表現を残すことが実は大切だったりするのではないでしょうか。
なぜならお釈迦さまも80歳のご生涯でしたが、2500年以上もたった今でもその精神が生き続けています。多くの人たちをすくい、導き、善導しています。すばらしいことです。
素晴らしい音楽が多くの人を勇気づけて励ますように、そういうこころのエネルギーをあなたも人生の中で見つけて発すること。✨そうすれば今度はあなたが多くの人を活かし、励まし、勇気づけて、しあわせにして、笑顔にして、おいしい思いをさせたり、楽しい思いをさせたり、ほっとさせたり、賢くさせたり、立派にさせたり、仲良くさせられるようなエネルギーになるのです。

そういう素晴らしいエネルギー、チカラを仏教ではBDS(ボダイシン・菩提心)と申します。みんなが幸せになれる心の力を菩提心と言います。お釈迦さまがその心をおこして多くの人を救ってくれました。私もその力によって救われたので私もBDS46のメンバーの一人であり、ここのhasunohaのオボーサンもみんなメンバーです。そういう優しい心を持てばみんなみんなBDS46のメンバーです。
私はもう亡くなったおばあちゃんが私をよく励ましてくれました。その優しい心が永遠に私を励まして活かしてくれますので有限でありながら今も一緒にいますので永遠です。だからこそ、限りのある中で沢山の幸せアクションをあなたもアウトプットしてあげてください。きっと誰かがずっと笑顔に力になると思います。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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