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会社を休んでしまいました。

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数年前にうつ状態となって会社を休みました。今は復帰していますが、毎年春先になると何故か頭にモヤが掛かったようになり、仕事への意欲が湧かなくなります。

もちろんそうしたときは心療内科にも行き、服薬して、しばらくするとまた元気になるのですが、今日はどうしても朝起きられず会社を休んでしまいました。

うつ状態で休んでからはストレスへの耐性が弱くなったようでちょっとしたことで簡単に不調になってしまいます。不調になると何をしても楽しくありません。

そんなことが数年続くと仕事への自信がなくなり、仕事ができない自分が嫌になります。

出世に興味はないと言いつつ、収入を考えると他人を妬む気持ちや自分が情けなくなり、何とも言えないみじめさが襲って来ます。

それに家族にも申し訳ない気持ちになってしまい家にいても気分が落ち込みます。

仕事への意欲や楽しむ心、そして自信を取り戻すにはどう生きれば良いのでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏のプライオリティ

企業でもよく使われるプライオリティ高めの案件です。
あなたが本当に苦しみから解放されるための優先度、優先順位高め。
人間は本当に優先するべきものを優先していない。
本当に優先するべきことを、優先するべきものを優先することができるようになれた人を覚者、仏陀、仏と言うのです。
私が仏を確信した出来事をお話します。
寺の境内にカミナリが落ちましてね。
無患子の木に落ちたんですよ。ムクロジ。
そうです。あのEテレでダイヤモンド☆ユカイが歌っていたというあのムクロジの木にカミナリが。ズガーーーン!!
それはもう西部警察のドガーーーン!なんてレベルじゃぁありませんでした。
一切を仏ッ智抜きで「THEそのこと」になりました。それまで何かものすごく大事なことを考えていたのですが、それも仏っとびました。
ドガーーーーン!( ゚Д゚)
その時気づいたのですが人間は本当に優先すべきことを優先していない作用がある事を知りました。おかしいでしょう?自分では「今何よりもこれが一番最優先」とかほざいていながら、もっと大きなドガーン!が来れば、そっちのことなんざぁホットケ様。どっちが仏さまでしょ?
木の仏も金仏も仏画も仏のイメージも仏っ飛んで「ただそのことあるのみ」でした。それを真如実際(仏)という。禅宗ではそっちのことを「ほとけ」というのですよ。
多くの人は絵にかいたようなイメージしたほとけを仏と思っていますが、そっちじゃない。あなたの皮膚、感覚、視覚、嗅覚、聴覚に今もコンコンとボ仏・ディランバリにknockしている仏があるのですよ。それを知らずして…、そこを優先せずして人はまるで別のものを優先して脳がそっぽむいとったと言うことを知りました。この話、分かる人には「あ、なんかわかる。」という話で難しい事じゃないのです。
あなたも仕事しなきゃとか、ああなりてぇ、こうなんなんなきゃなぁって思っているでしょ。それ、違います。それ、仏じゃないもの。ホントに優先するべきものではない所のもの。
その前に、それすらそっちのけで「いまこれみてた」でしょ。そこ。
そこに超高速割り込みする思考と言うツッコミ不要。解説、司会者、コメント、テロップ不要。THE ダイレクトknockがこの身に今もある。あらわれている。
そこが仏のプライオリティ。あなたが眼を向けるべき「最優先俺ちゃん意識注ぐべきポイント」ね。グッジョブ。✋

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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