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休むことに罪悪感

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とうとう休職の診断書を医師が書いてくれました。しかし、いざとなると休むことに罪悪感が湧いてきました。ギリギリの人数でやっている中で2週間程度の休職・自宅療養となっています。どうしても大きな声を出して自己中心的な入居者に対して強い口調で接してしまいます。その反動で他の入居者にも冷たい言い方になってしまうので介護士の前に人間として失格です。医師は休んでも休まなくても変わらないと思っているなら休んでみた方が…と言って下さっています
ただ、妊婦になったスタッフもいるので申し訳ない気持ちが消えません
昨日は、早退して心療内科に行きました。診断書を出しに行く気力もなくいけませんでした。配属先のリーダーには休みをもらうかもとは伝えています。復帰後でも入居者はいるのでどこまで自分を抑えきれるか‥。その中で障害者就労支援センターに行き契約更新が無くなるかもしれないので相談・登録をしてきました
障害に少しでも理解をしてくれる場所の方が自分の身体には良いかもと思ったからです。どんどんスタッフも辞めていきます。補充は外国人労働者です。一から教えなければならないので大変です。あと姉との関係も悪い方なので土日は家に居たくないのも本音です。職場の上司には今日、行こうと思いましたが休みで行けませんでした。明日、診断書を持って今後の働き方を相談します。休むと言うのは簡単ですがいざとなると休んでいいのだろうかと思ってしまいます
自分がどうしたいのか分からなくなってきています
診断書を無視して働いた方が良いのか診断書を書いてくれた医師には休んだことにすれ良いのでしょうか?休むべきでしょうか?

2024年10月31日 14:41

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

そういう風に考えるクセや負の反発にこそ休息を。

せっかく休息できるんですから、休ませるものを休ませないと体も心も休まらないというものが体と心の真実です。
休みたいときあなたの体は「休みたい」が本音なんですよね。だから、つらい、苦しい。苦しいから休息を必要としているという状態なのです。
まずは、あなたの意識も休ませる。それは人間的な価値観。生命や身心の観点ではないでしょう。だから休まなきゃ、休んじゃいけないんじゃないかということ自体が不要です。天地自然、大自然の道理にかなったことだけやりましょう。
あなたの体も心も休息を必要としている、ということです。
もちろん医師の判断や診断も
よって、それは他の人も同じです。
入居者たちも同じ気持ちはあるのでしょう。
だから、悪さをした人に対しても強く当たると自分も嫌な気持ちにもなりましょうが、相手もこちらを面白く思わなくなるはずであり、しかもそれをあなたも分かるはずでしょう。ですが、それでも攻撃的に当たってしまうということは、それでもそっちを優先する習慣があるということです。しかも、そっちの習慣を優先することで結果的にこころが晴れやかにならなくなってしまう面もあるということでしょう。

人生に必要なスキルは心の安全運転です。
それが一番大事なのに人はそっちに向かわずに違うモノに価値を置いて、自分ではない人に安全運転の方法を訪ねているのです。
ご安心ください。
あなたの心の安全運転の為のハンドルも、アクセルも、ブレーキも、ドアも、窓も、タイヤもあなたの上にしかありませんから、誰も奪えません。
さらにはその高級車を運転するドライバーはあなたですから、人に運転方法を学ぶ必要はありません。
ですが、それでも人は時として必要になることがあるのです。
そんなときは、仏道というと難しいかもしれませんので、武道や書道のつもりでこの自分自身を道だと思いましょう。
波立つことがあろうとも、その波立つ心の水面、自己の心を鎮めれば、おのずから自分の上に鏡が現れる。
一切はわが鏡の上に映し出される言葉だけ。
それ以外の思い、迷いや不安は鏡や水面に映らざる文字のようなもの。
自分の鏡に映し出される出来事を静かに見つめて、本当に処すべきあり方を見出した上で事をおこすのです。人は本来は誰でも自分の安全運転にだけ中止すればよいのです。どんな暴走者もドライバーの心が定まれば安全運転です。🚗

2024年10月31日 18:27
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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます
仰っている通りです。知らず知らずのうちに落ち度のない人たちにも強い言い方をしていると思います。今後の生活のなかに同じような事をしないようにします

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