病気に耐えるのが辛いです
出産後に発症した難病に苦しめられています。
全身に炎症が出て24時間、激痛に耐えながら育児、家事をしていますがもう限界です。
確立した治療方法はなく似ている病気の治療に使っている薬を飲むのですが、その治療費が月5万近くかかるため継続困難となり、治療をやめました。
死ぬ病気ではないため、終わりの見えない痛みに苦しみ続けるのは疲れました。
子供や夫を残して死ぬことは残酷なことだとわかっていますが、痛みから解放されて楽になりたいと思う私は最低の母、妻なのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
あなたは勝手でも弱い人でもない
原因が不明の痛い病気に苦しんでおられるのですね。原因が不明ということは、解決策が見えなくて、出口がみえないので辛さがいっそうつのりますね。
そんな状況になったら誰でも気持ちが折れそうになりますから辛くて逃げだしそうになるのは当たり前です。あなたが弱いのでも勝手なのでもありません。
ただ、世の中には難病を克服した人、克服じゃなくて自然に独りでによくなってしまった人もたくさんおいでです。希望の灯まで自分で消さないでください。どっかに改善する糸口があるかもしれない。それをお医者さんや、ご主人、周囲の人たちと探してみるのをやめないでください。
医療費の問題は、よく似た症状の人の薬を服用するのはそれしかしようがなかったからで、決定的なやり方ではなかったわけですから、あまり気にしなくてもいいのではないですか。特効薬があると分かっていながら買えないのとは違いますから。
それより同じ症状で苦しんでおられたのに、よくなられた前例を探してどうやってよくなられたかを尋ねてみる。他のお医者さんの意見を聞いてみる等のことをなさったら、と思います。
もう時効と思いますから申しますが、前住職がガンでターミナル期にあったとき、東京の国立がんセンターにメールをし、いろいろご相談したことがありました。高名な先生が丁寧に相談に乗ってくれたことがありました。セカンドオピニオンも大切だと思いました。諦める前に出来ることを探してみるのも大事ではないでしょうか。
身体の痛みを単なる「痛み」として心では痛まない方法
おかわいそうに。
おつらいでしょう。
かわってあげられなくてごめんなさいっ。(´ー`)
何とかしてあげたいです。どんな病気かわかりませんから、何とも言えませんが、専門の先生が見つかれば今よりはすこしは身心がすくわれますから、見つかる事を祈ります。医者って治療できなくても「僕には治療できません」的なことは立場上、はっきり言わない人が多いそうです。
せめて、あの病院にこの病気に関して詳しい先生がいるよ、と普通に言ってくれればいいのですがねぇ。
それでも、どうしても治らないとしてもそうなった原因を突き止めて、その原因を取り除いて、体調体質を変えていかれることもお勧めします。
大切なのは難病だから絶対に治らないんだ、というあきらめ精神を絶対に思い起こさない事。そっちに向かわせるよりは「それでもせめて心だけでも苦しませないようにしよう!」「きっといつか緩和方法、治療方法がみつかるはずだ」「少しでも軽減できるように原因を突き止めて、摂取するものを改善していこう」などと、心を前向きに傾けるべきです!それも仏教の菩提心と言うものです。苦しい病気も治そう、諦めないぞ、という善導する気持ちです。
道元禅師は「無常を観ずる心も菩提心と名づく」と説かれます。この教えの真意は、いわゆる一般論の無常「モノが移り変わる」ではなく、あなたの身心が痛いときは痛い。でも痛いながらもここに質問を入力してくださったことでありましょうが、それでも今、少しでもさっきの激痛からちょっとでも離れている一瞬・瞬間があったとしたらそこをみつめること。それはそれで痛みからの解放。ちょっとでも解き放たれていた状態。この全自動身心浄化機能を深く見つめて「今は今の痛みだけれども前の痛みじゃない。だから痛いけれども、それは前の痛みではなく解き放たれているのだ!という❝新しい痛み❞の部分に解放や救いの気持ちを向けてみてください。私もそうしています。病通とは痛いときには痛いですが、心だけそれを困るという心を無くすことができます。
それは、痛いときに「痛い」というだけ。つい、余分な心の付け足しをしちゃうものですが「痛~」と時には笑ってみることです。
痛みは痛みの瞬間に痛いという知覚はありますが、そこに悲しい、つらいという後から起こす想念が伴わない痛みだけの瞬間があります。そこを徹底的に見つめる。伴わせを生じさせないようにするのです。