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密教における欲、怒りについて。

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昔、私が学生だった頃、大学でインド哲学を学んだ人から、こう教えられました。「初期仏教では人に属する欲は全て良くないものと全否定されるが、時代が経てだんだんと欲は肯定されていって、仏教の最終段階である密教では「セックスは菩薩の境地だ!」と教えられるのですよ。そうやって密教では性も含めあらゆる欲が全肯定されるに至るのです!」と。

また同時に、弘法大師を信奉するある僧侶の方が「日本人は怒れないないからダメなんだ!」と仰り、その言葉を持って、先の人からは「(人に対して社会に対して)もっと怒れ!怒れ!」と、私は言われ続けました。

私は{密教では怒りの感情も人間に属する<聖なる属性>として肯定されるのか。。}と思い、それからというもの、私は何かと「怒り」を持って親や世間の人たちに接し、それが故に大きな軋轢を家族や人々との間に作ってきました。
今はそのようなことすべてを後悔しています。

私も老齢を迎えつつある今、お釈迦様の言葉や弘法大師の「四恩十善の教え」を知るなかで、実際のところ、密教では「欲」や「怒り」はどのように扱われるのだろうという疑問が頭から離れません。

彼らが言ったように、欲や怒りは密教では「善きもの」なのでしょうか?
そのように肯定されるものなのでしょうか。
お釈迦様の教と密教はそれほど違うものなのでしょうか。

どうぞお教下さい。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

恐れていたことが・・・

初めまして。

真言宗の根本経典である「理趣経」では確かに人間の持つ欲望も突き詰めれば菩薩の境地であると説かれております。
・・・が、解釈を間違えるととんでもないことになりますので、これを学ぶには正しい師の下で師の方も弟子がきちんと学べる境地に至ったのを見極めてから授けないといけないものでした。
言葉のみを捉えれば本当に誤解を招きますからね。
現に伝統仏教に反発する某教団が「真言宗はセックス教団だ~」なんて吹聴していた時期もありました。

ここでは大まかな解釈にとどめますが、人間の持つ煩悩のエネルギーは本来人間が持つ、宇宙の働きから生まれた純粋な生命力から発生したもので、それ自体には本来いいとか悪いとかいった区別はない。この爆発的で膨大なエネルギーに正しい意識でもってポジティブな方向性を与えてやれば、如何な困難も乗り越え成し遂げるほどのパワーを発揮できる(変換できる)というような解釈を個人的にしております。

例えばご相談内容にある「怒り」ですが、個人に対して小さな怒りをいちいち表していたのでは人間関係もうまくいきません。
密教には様々な明王が憤怒相をもって怒りを示されておりますが、これは当然たわいない様な事柄に対してブチギレているわけではありません。
もっと大きな怒り、愛ゆえに悪い方向へ行こうとする人や人を堕落させるものに対して親が子を叱る時のような愛情に裏打ちされた怒りの形相なのであります。

社会に対して怒れというならその怒りのエネルギーでもって自分ができる範囲で周囲を改善していくとか(当然怒りを表に出すことはしません)、或いは選挙に立候補するなどして「オレが社会を良くしてやる!」というような方向に持っていくべきで、他人様に対してキレなさいと捉えられかねない説明は控えるべきではなかったのかなと感じました。

インド哲学の方に対しては僧侶ではないのであくまでも個人の解釈ですが、あおぞら様がこれからでもきちんとした師(お寺さん)に御縁ができて正しく学べることを願っております。

※追記
あおぞら様の文章から垣間見える理解の早さや分析力から、諦めることなど勿体ないと感じました。いいセンスをお持ちなのではと思います。是非今生での良い師と学びの機会に恵まれますよう、本当に心から願っております。

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一般家庭から真言宗のお坊さんとなりました。 お寺はありませんので普段は普...
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密教

あおぞらさま

密教を理解するためには必ず顕教からその理論を正確に押さえていく必要があります。

簡単には、自利と利他、空と縁起、智慧と方便、勝義と世俗、法身と色身・・

密教はあくまでも、この二つのそれぞれの理論に関して、顕教よりスピードを速めて修習していくためのものとなります。

そのスピードを速めるためには、当然に行者自身の「力」も必要とします。

そこでどのようにその「力」を増幅させるのかということの一つにおいて、根源的な力を求めるところにて、表現が世俗的シンボリックなものと同じく、貪欲(欲望)や瞋恚(怒り)、快楽等と表さられるものとなりますが、その内容、解釈は世俗的な意味合いとは異なったものであることについては、十分に注意しなければならないものとなります。

また、密教においては、スピードを速める分、当然にリスクも高くなるものとなります。扱う上での条件や誓約事項の遵守も顕教よりも厳しいものになります。

最も誤解の多い性瑜伽につきましては、下記を少し参考に頂けましたらと存じます。

無上瑜伽タントラにおける性瑜伽について
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/7189628e5b0bc4bb9f32bfae20710e5d

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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そこに菩提心や善導の精神がなければ貪瞋痴は害悪

欲も怒りも迷いもその「導き方」が大事です。
まず、欲。
世の中を救いたい、助けたいと発願すれば尊い欲望。だからと言って反発する勢力を正義の剣で切りつけたら相手にとっては危害。世を正さんと欲するならば言わんとすることが一見正しいようでもやり方が間違えば煙たがられる。
怒り。
私は学生時代、死にたいと思った時、怒りと菩提心で立ち直れました。怒りは自分自身を向上させるエネルギーとして活用したり、世の非道や悪を正さんとするエネルギーとして上手に用いることができればよい働きとなるでしょう。ですが、日中韓朝の現状や、世に怒りを持つデモの扇動家たちを見てください。反日教育や攻撃的な政権批判で相手を憎むように邪心で導かれれば誰かが敵、悪になる。関係ない人までが怒りによって危害を受けています。それも正義の剣で人を斬ること。
次に愚痴・無明・迷い。
迷いや晴れない気持ちも上手に活用されれば自己を向上させんと、悟りや涅槃を求め、一切衆生を救わんと発願する菩提心の働きとなりましょう。
ところが、勉強不足であったり、真意をよくわきまえないセルフな解釈で仏教を都合よく解釈する新興宗教や偏狭思想家、著者たちをみてください。彼らは仏教をツールとして自己実現をしているだけの人たちではないでしょうか。誤った仏教解釈で低俗な教え、ベタな教え、正法とは程遠い我見に基づいた解釈ででたらめを吹聴している人たちはSNS内でも多く見受けられます。それはどこまで行っても「自分が自分流で自分の都合によくやっていた仏教」なのではないでしょうか?釈尊、祖師、経典の真意をわきまえずに我流・私的・わたくし流にとらえたオシエの解釈です。今の世間のメディアのニュースはまさに同じようなものでしょう。事実をスポンサーや権力者に都合よく捻じ曲げて進めていくことは、別の狙いが生じているということです。
仏教の教えの真意を会得するということは、その教えの真意を会得するということであって、その教えを用いて「わたくしのために費やさん」とすることはあってはならないのです。それは人権を用いて政治活動や相手をおとしめる人権をツールとするような人たちがいるように、仏教をツールとしてわたくし流に用いる姿勢になってしまっているのです。
ゆえに菩提心、善導の精神を伴わせるのです。
そうすれば貪瞋痴も自分も相手も救われる働きに転嫁させることができるでしょう。

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おきもち

質問者からのお礼

川口英俊 様
早々にご回答有難うございました。
私にはとても難しい内容でしたが、ご紹介のブログも読ませて頂きました。

すべての密教経典は正しくは、そもそも密教修行者に向けてあるものなのですね。改めてそのことを確認できた思いがいたします。

ですから、経典の中において使われる言葉の表現が、「表現」として世俗とたとえ同じであったとしても、密教修行者の進む道から観て、その内容や解釈、意味合いは世俗とは異なるものであり十分に注意が必要であるとの川口様のお教、しかと理解いたしました。有難うございます。

密教経典の内容の浅はかな理解を基に、世俗に生活する私たちが安直に日常の生活に持ち込むと恐ろしいことになりますことは、若き日の私の狂った生活を振り返れば、十分に理解できることでした。

そのインド哲学を学んだ人が何を意図して、密教修行者の「修行」に関することを何も知らない学生の私に話したのかと考えておりますが、当時、その人を取り巻く小さなカルト状態でしたから、若い私たちを操るために、そのような経典が利用されたものだと思っています。相手に、世俗についての「欲」や「怒り」を持たせれば、その人を容易くコントロールできたのでしょう。

人生、後悔や反省できるうちが花なのかも知れません。
今はそういう想いもいたします。

このコロナ下、川口様のご活動も困難となっていますでしょうが、ご健勝にて、ご活躍をされますことを心より祈念しております。

合掌 あおぞら

渡部仁 様
ご回答有難うございました。
「他人様に対してキレなさいと捉えられかねない説明」
ここを読んで思わず笑ってしまいました。
でも実際そのようなものでした。
日常に起こる些細な「怒り」をも彼らは絶対的に肯定していましたから。

私にその理趣経の文言を紹介した人も、「日本人は怒れないからダメなんだ!」って言っておられた僧侶の方も、実は熱烈な共産党の支持者の人たちで、「マルクス主義は真理だ!」と叫んでいた人たちなのです。その僧侶の人は「自分の仕事は仏教とマルクス主義を結びつける本を書くことだ」と言ってましたし、おそらくは、密教の持つ現生利益的な側面とマルクス主義の社会発展の革命学説とを結び付けたいようでした。

でも、今、お釈迦様の言葉を改めて学んでいますと、お釈迦様はそのようなイデオロギーである「見解」を捨てなさいと仰っていますね。それを知った時、驚きました。自分たちが教えられているのとはずいぶんと違ったからです。

「人間の持つ煩悩のエネルギーは本来人間が持つ、宇宙の働きから生まれた純粋な生命力から発生したもので、それ自体には本来いいとか悪いとかいった区別はない。」

読んで{なるほど!}と思いました。そういう意味でも、密教を学ぶには、その場、その場、その人、その人において、「いい」「悪い」の判断を適格にできる熟達した師が必要なのですね。また何を目的に密教を学ぶのかも明確でないといけませんね。
私は今生では難しいと諦めています。
人間不信がとても強くなっているからです。
でも、お気遣いありがとうございました。

今はコロナで本当に大変ですね。
渡部様もお体には十分に気をつけて、益々ご活躍されることを心より願っています。

合掌 あおぞら

丹下覚元 様
ご回答有難うございました。
菩提心というのは、自身が悟りを求めて人々を救済しようとする、仏教修行者の基本的な「心」のことですね。お話を伺っていて、仏教を学ぶにあたっては、その人が自身の菩提心を発するということが、いかに大切で重要なことであるかという思いを強くいたしました。
その心なくしては、たとえ話が立派であっても、丹下様の仰るように仏様の尊い教えを自己の我欲の都合に合わせた、ただの「ツール」に堕し、真の平安を求める自身にとっても、また、話を聞く他者にとっても大変な害悪なものであるとのお教、よく理解いたしました。
若き日、その理趣経の文言を私に紹介した人は、「共産党員は現代の菩薩だと言われていますね」なんて言っていましたが、ついに本人が菩提心について語ることはなかったです。インド哲学を大学で学んだと言っても仏教を自己を飾る正に「ツール」にされていた人だったのだと今は思っています。

今日は子供の日ですね。
明日の日本や世界を創っていくのはこの子供たちですから、その一人一人が仏教の正しき教に触れ、その貴重な人生をしっかりと歩むことになって欲しいと切に願います。

自身の過去の行いを後悔ばかりをしていた私ですが、昨日は自身から思わず「反省」という言葉が出てきました。私にも、このように僧侶の皆さまのお蔭をもって、現在の自身をどこか客観的な観点から見つめ直し、過去は過去のものと整理できる芽が出てきたのかも知れません。有り難いことです。

丹下様 禅の道はたゆむことのない自己探求の道だと聞いております。
お体に気をつけて、益々ご活躍されますことを心より願っております。

合掌 あおぞら

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