個性にとっての最善とは
いつもこちらにご相談できるだけで救われます。ありがとうございます。
職場の保育園で、発達障害の診断こそ受けていないものの集団から遅れがちな子がいます。色々な事を楽しむ力もあり、能力も決して低くないのですが、自信のなさ、情緒の不安定さや注意欠陥の度合いから集団行動のペースについていくには援助の必要を感じ、実行してきました。
しかし周囲からは「診断もない子を構い過ぎだ」と思われているフシを感じます。
様子や関わり方を説明し、周囲も理解はしてくれるのですが、
「この先学校で、今のように手厚く見られないから」「診断がついていないから」、今目の前で困っている彼を、あえて助けないという判断はつまり、乱暴に言うと大人に余裕がないから切り捨てろという事ではないでしょうか。
本人の為に自立を促していくのは勿論ですが、「このラインに達していないから」「あなただけ特別扱いできないから」という「平等」が、彼の個性を「公平」に受け止めてくれません。
散歩に行きたくないと大泣きして、親には周囲と同じようにできないことを罵られる彼に、「行きたくない」の言葉の真意を汲んでどうにか連れ出し、散歩中の楽しそうな様子を伝えて親に「よかったね」と言われる援助をこそ、目指してきたのですが。
彼が皆と同じように楽しく過ごせるように、スタートラインまでは手伝うことは、彼の為にはならないのでしょうか。
彼にとっての最善とは何でしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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彼という宝石の原石を磨く
こんにちは。
「彼にとっての最善とは何でしょうか」とのお尋ねです。
現場レベルでは、その場に応じた「最善」の対応があると思うため、外部の専門外の人間がいえることは多くないと思います。
ただ、根本的な考え方の面で若干お話しすることはできるかな、と思います。
あなたは保育なので、少し違いがあるかも知れませんが教育とは何か、ということです。明治の時代に、educationという訳語をどう訳すかで問題になったそうです。今では、教育と当たり前のように訳すようですが、福沢諭吉は発育という語を推奨したそうです。
「学校は人に物を教うる所にあらず、ただその天資の発達を妨げずしてよくこれを発育するための具なり。教育の文字はなはだ穏当ならず、よろしくこれを発育と称すべきなり」(「文明教育論」)
つまり、もともとあるその人の資質を「発達を妨げずしてよくこれを発育する」ものがeducationなんだとということです。ですから、教えるとか、導くではなく、元々ある宝石の原石を磨く、育てる、発掘するというものを福沢諭吉は提唱したわけです。
これは、仏教の言葉である開発(かいほつ)と共通している(あるいは元になっている)考え方です。仏様になる宝石の原石が人間にそもそもあり、これをどう磨いていくかという視点です。
この考えを元にしていけば、彼という宝石の原石は何を磨けば光るのだろう、ということを追求することが「最善」なのではないかと思いました。
ご参考まで。
彼が「笑顔で過ごせる」こと
えむえむさま
お気遣いを頂きまして、誠に有り難く尊いことでございます。
「最善」の一つは、彼が「笑顔で過ごせる」ことになりますでしょうかね。
今は、貴女様のお蔭様にて、彼は「笑顔で過ごせる」ことができていけていることが多くあるのでしょう。有り難いことです。
しかし、これから先のことも含めて色々と心配になるのも当然であります。
成長によりハンデが無くなっていくこともありますし、杞憂なこともあるでしょうが、どうしても療育や成長ではハンデが無くならない場合もあります。
このままの環境にて、彼は今後も笑顔で過ごしていけるのかどうか・・と。
そのあたりの見極めが非常に大切であり、「笑顔で過ごせる」ことを重視するのであれば、しかるべき機関への相談、診断、療育支援について親御さんに要請してあげるのも大事なことになります。
どうしても改善が難しい、無理なハンデであった場合、彼がこのままの環境で過ごしていくのは、非常につらく苦しいこともあり得てくるということであります。
そのような中では二次障害の恐れもあるということです。
彼がこれからも「笑顔で過ごせる」ために、どうしていくのが最善か、そこを是非、親御さんともご相談なさられて頂けましたらと存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
川口様
いつもご回答いただきましてありがとうございます。おかげさまで彼が彼の道を笑顔で進んで行くのを見送ることができました。お礼が大変遅くなり失礼致しました。
釋様
漠然とした質問ながら、相談の彼のみならず、すべての子どもに通ずる教えを頂きましてありがとうございます。お礼が大変遅くなり失礼致しました。