復讐を果たしてざまあみろと思う自分に失望
過去に自分の心を深くえぐった相手に対して(それがきっかけで現在、精神科に通院中です…)、「予期せぬ復讐」をしてしまいました。「復讐してやる!」などとは一切思わず、自分の言動が気がついたら相手への復讐となっていた模様です。
そんな「予期せぬ復讐」に気がついたのはついさっき(約四時間前)で、気がついたとき、とても驚きました。それから三十分くらいは心臓がバクバクしていました。というのも、いくら意図していなかったとはいえ、考えてみれば、相手の心を深くえぐる結果になったのだと、想像できたからです。
そして今、「予期せぬ復讐」に気がつくまで相手に対して抱いていた恨みはいささか減じたように思います(また時間が経てば強く出てくるかもしれませんが…)。相手を傷つけたことに対する罪悪感もありません。むしろ「ざまあみろ」という気持ちです。なので今は比較的、心は穏やかになりました。
ただ一つ気がかりなのが、「予期せぬ復讐」を果たして、相手を傷つけたと気がついて、「ざまあみろ」と思えてしまっている自分自身に対して失望を感じているということです。
というのも、「人生って優しくなるためにあるんだと思っています。昨日の私よりも、今日の私がちょっとだけ、優しい人間であればいいなと思いながら生きています」という、とある作品の台詞に感動して、自分もこう言える人になりたいと思って生きてきたからです。
自分の中にいま生じている感情的な矛盾(「ざまあみろ」と思えてしまっている自分vs「優しい人間になりたい」と思っている自分)が、自分に対する失望という形で表出している気がします。今まで私自身もひどく他人を傷つけてきたとは思いますが、自分が今回の「予期せぬ復讐」でさらに穢れてしまったように感じられます。
この自分に対する失望は、どのように解釈、あるいは、どのように抱えて生きていくべきなのでしょうか。よろしくお願いいたします。
嫌だった出来事は、ずっと心に残っている傾向があります。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
人は優しい
人は本来優しい生き物です。
人に喜ばれることをすると、嬉しくなります。
より良い人になろうといつも向上心を持っています。
自分が見えなくなると復讐したいとか、自分自身を卑下してみたり、驕ったりしてしまうものです。
しかし、その気持ちを握っていても、幸せにはなりません。
復讐してざまあみろとおもっても、一瞬心が安定したようでいて、幸せを手に入れることはできません。
良いことをしないと、人は幸せにはなれないのです。どこか自分に満足できないから、ご相談されたのでしょうが、本来の人間そのものに立ち返り、これからたくさん良いことをしてください。
良いことをすれば、気持ちも晴れやか、爽やか人生に早変わりです。
復讐についてはしたことはしたこととしつつも、今この瞬間に気持ちを切り替えていけば、幸せのチャンスが訪れると思います。
質問者からのお礼
邦元様
ご多忙の折ご回答いただき、ありがとうございます。
>どこか自分に満足できないから、ご相談されたのでしょうが
はい、文中ではそれを「自分に失望」「感情的な矛盾」などと回りくどく表現してしまいました。端的に言えば「自分に満足できない」ということなのだと思います。私の気持ちに言葉を与えてくださり、ありがとうございます。
ご回答の中で深く感銘を受けたのは、「人は本来優しい生き物です」という文章です。「なる」ものではなく、それが人というものなのですね。
これからは誰に対しても、復讐など一切考えず、とにかくどんな小さなことでも、良いことを積み重ねていけるように、人として向上できるように、努めていこうと思います。「良いことをすれば、気持ちも晴れやか、爽やか人生に早変わりです」という文章、けっして忘れないようにしたいと思います。
この度はご回答くださり、本当にありがとうございました。 高橋