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地獄を繰り返すために生まれてきたのか?

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この世界で生きる意味について聞きたいです。

私は親がいつも怒鳴りあう家で生まれました。父親は自分の思い通りにならなければ許せない人間で、いうことを聞かなければ暴力と金銭を振りかざします。それは自分に対しても同じなので黙って言うことを聞き、こんな男にはならないと誓いました。しかし、約束を守ってくれない母親や姉に私が普通の声で怒ると二人から父親のようだと軽蔑されました。彼女達もいつも大声で怒鳴りあうのに。その頃から「自我や感情を持ってはいけない」という思いが生まれ「親父のようになりたくないから、人の気持ちを優先するようにしよう」と決めました。

それからは家でも、学校でもピエロのように本気にならない人間を目指し、人から馬鹿にされても何を言われても「俺は怒らないし、正しく判断できる人間じゃない」と思って生きました。でも、高校の終わりごろから他人から求められる自分像を維持することが難しくなり、まともじゃない自分に自信を喪失してしまいました。

このままではいけないと思い、大学からカウンセリングに行きはじめ改めて原因が家族関係にあることに気づきました。そこで認知の歪みをなくせば「まともな人間」になれると思い、自分の認識や考えに疑いを持つようになりました。その中で、経済や歴史・宗教などを知り、「まともな人間」は作られたものだとそこでやっと気づけました。

ですが同時に、人は生まれてきた時点で他人や他の動物のポジションを奪う生物で、欲や自我をなくせないこと・自分は親より弱かっただけということを思い知りました。この世界では、もし大切な人が出来ても、自我がある以上相手を思いやるようで自分のことしか考えることはできません。自分が自分でいると、誰にでも平等にはできず昔の自分のように奪われる人を作りだします。
言いたいことを言い他人を別の生き物のように扱うサル山の大将のような人間が持て囃されます。俗にいういい人は基本的に特定の人達に優しい人です。それがこの世です。

ずっと苦悩し、皆幸せになる方法はないのか考え続け堪えてきましたが、知識や知恵がつく度それが不可能であることに失望するばかりです。もう疲れました。

きっと社会で生きていくには、世界を受け入れサル山の大将のように好きに生きるしかないんだと思います。だとすればこの世は地獄でしょうか?されたことを繰り返すしかないんでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人間界に六道も見える

輪廻を繰り返す生命の中で人間と天人は善い境涯のはずなのですが、特に人間には、苦楽が併せて起こります。
 人間の中で家族や友人と支え合って助けてもらって、朗らかに、天人のように生活する人々があります。
 地獄は想像もできませんが、畜生のように生殖や衣食住にだけ夢中な人々もいます。餓鬼道のように「足りない」という思いや嫉妬やケチという感情で苦しんでいる人々もいます。阿修羅のように、家族のはずなのに、ケンカばかりしている人々もいます。
 人間に生まれた業は善業なのですが、生まれる業以外の付属品の業が、前世のいろいろなものを引きずって、支えたり足を引っ張ったりします。
 業は自分だけのもの(自業自得)ですが、誰かと家族や近所付き合いになることも、自分の業の表れです。縁とも言います。
 他者は、自分との関わりの中で生活や行動のパターンを変えてもらえるかもしれません。しかしそれも、自分の進言を縁にしたその他者の努力の賜物です。
 基本的に、他人を変えるのは無理だと思った方が良いでしょう。それぞれの人が長い輪廻の中で性格や行動パターンを決めてしまっています。変わる人がいるのは、その本人が変わらなければと努力したからです。

 家族と距離を置くのは善いことだと思います。心清らかな、言動がしっかりして落ち着いている人々と接し、その生き方を学び、自分を向上させつつ、出来る範囲で、他者にも良い影響を与えられるように頑張ればよいと思います。

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初期仏教というか仏教本来の教えを学びつつ、その在家信者のあり方から見た日本...
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誰もが自分が一番大切です。
その一番大切な自分を守る為には、自分の周りの人達を守る必要があります。
周りの人達を守る為にはさらにその周りの人達を守る必要があります。
考えていけば際限が無いです。
だからといって諦めてはいけません。
先ずは自分の周りの人達から大切にしていきましょう。
生きる意味は深く考えなくてもいいです。
例えばあなたが人間の親指に生まれてきたとして、何のために生まれてきたのか考える意味があるでしょうか?
物を掴んだり、ボタンを押したり、足ツボマッサージしたり、指紋を残したりなど
今この瞬間に親指ができることや周りから望まれることをただひたすらやり遂げるのではないでしょうか。
私たちも同じだと思います。
今できることをやるだけです。
もし大切な小指ができたら例えそれが自分の為であっても守ればいいのです。
お釈迦様も勧めていますが、長年修行して身につけた怒りを制御できることに自信を持ってくださいね。
なお稀に、弱者に代わって弱者の為に強者に怒ることは仏教でも許されていますからね。でもその際は身を守りながらほどほどにですよ。

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私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
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質問者からのお礼

お礼が遅れてしまいすみません。
貴重なご意見ありがとうございます。
指の話はその通りかもしれないと思いました。多分それが真理なんだと思います。考えても仕方がないかもしれません。
でもその為に争い続けるのはやっぱり虚しいです。
お二人のご意見、今後の参考にさせていただきます。

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