瞑想中の強い自己嫌悪感との向き合い方
こんにちは。見ていただきありがとうございます。
2週間ほど前からアプリを使って、瞑想をするようになりました。リラックスした姿勢で座り、アプリの音声を聞きながら呼吸に集中する、といったやり方で行ってます。
瞑想を始めてから集中力が上がり、精神的も安定するようになりました。
タイトルの通りになるのですが、先日瞑想をした時に、急に自分が嫌で嫌でたまらない気持ちでいっぱいになりました。
例えて言うなら子供が泣きながら「ヤダヤダヤダ!」という感じで、手足がむずむずして早く自分自身から離れたい感覚がしました。
リラックスしている時に突然、強い気持ちに駆られたので、とても驚きました。こういう気持ちになるような心当たりも特にないです。
それで教えていただきたいのですが、
・こういう気持ちになった時の向き合い方
・同じようなことを体験したお坊様がいらっしゃったら、解決した方法
・瞑想をする上でのコツ
について知りたいです。
何となくですが長い目で向き合っていかなければならないような感じがしますし、瞑想の師匠もいないのでアドバイスを頂きたく思います。
よろしくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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本当の自分と向き合いたくない
という気持ちが、案外、誰にもあるかもしれません。自分では自分をまあまあ良い奴だと思っていたのに、心身を落ち着かせてあるがままの自分と向き合おうとすると、忘れていた(気づいていない)悪い部分とも向き合うことになるので、急に、続けるのが嫌になることはあり得ます。
音声に誘導されて呼吸を観る瞑想というのは、たぶん、落ち着くための集中瞑想(サマタ、止観の止)だと思います。仏教以外のすべての瞑想はこれです。普段の状態から落ち着きに入るにはよいのですが、落ち着きが出てきたところでいろいろ発見があり、予想もしていないことなのでびっくりするかもしれません。
何が起きても、びっくりせず、ただ、心身に起こることを観察し続ける観瞑想(ヴィパッサナー、止観の観)もあります。釈尊が発見した(初期)仏教独自の瞑想です。こちらも集中して落ち着くことができますが、何よりも、落ち着きのおかげで普段とは違った状態になっても、「それがどうしたの?構わず観察を続けなさい」というやり方なので、不思議な状態を乗り越えやすいです。「足が痛くなっても、何か思い出しても、何が起きても、最初に決めたこの30分だけは逃げ出さずに心身の状態を観察し続けるぞ」という覚悟を決めて、ただ、心身を見続けるのです。痛み痛み痛み、とか、恐れ恐れ恐れ、とか。どんな現象も、感情を交えずに観察し続けるとそのうち消えます。落ち着きに戻ったら、また、心身のわずかな変化を、おなかの膨らみ縮みとか、鼻腔に当たる出入息の空気の感覚とか、を観察し続けます。
観(ヴィパッサナー)瞑想も、いろいろな人が最近は紹介していますが、日本人に初めて正確に教えたスマナサーラ長老の教え方が、一番良いと思います。サンガ出版からの書籍が、破産により手に入らなくなり、長老が主催する日本テーラワーダ仏教協会が在庫を買い取って代理販売しています。もっと簡単には、YouTubeでもヴィパッサナーを教えているものがあるかもしれませんので、それを探して視聴すると良いでしょう。
質問者からのお礼
早速アドバイスいただきありがとうございます。
落ち着き状態=心身ともに安定して悩みが浮かんでこない状態かと思っていたので、色々発見が出てくるというのは驚きです。
次回同じようなことが起こったとしても、落ち着いて対処できそうだと思えました。教えてくださりありがとうございます。
明日の瞑想からは、ヴィパッサナー瞑想のやり方に少しずつ切り替えて行き、自分と向き合う瞑想をやってみたいと思います。
教えて頂いた書籍も読んでみたいです。
回答いただきありがとうございました。新たな気づきがありましたら、また相談させて頂けると嬉しいです。