やり直すことを望まれていない者の生き方
私は古くからの友人に対して酷い名誉棄損を犯し、深く傷つけてしまいました。
警察沙汰にはならず示談という形にしていただけましたが、SNSで名指しで報告されたことでたくさんの友人・知人に軽蔑され絶縁され、またインターネットで想像以上の広範囲に拡散してしまったため私の居場所はどこにもなくなりました。
それは当然の報いと受け入れて、インターネットの別のコミュニティで名前も変えてゼロからやり直し始めました。
しかしそのうち第三者から私だと特定されて事件のことを広められ、そこからも姿を消さなければならなくなり
私の所業がさらに広範囲に知られるだけでなく、そのコミュニティにも迷惑をかける結果となりました。
事件のことを何も知らない友人にもタレコミが入るなど私を咎める動きは後を絶たず、今後も続くと思われます。
「あんなことをしておいて普通に生きようとするなんて反省していない証拠だ」というのが総意のようです。
自分の行いを悔やみ反省しても、世の中はそんなことに興味はなく、私の再起・やり直しは全く望まれていません。
被害者の方も、今後私が普通に生きて幸せになることは不快でしかないでしょう。
罪を犯しても誰でもやり直すことができる と説かれている問答も目にしますが、やり直すことを許されない・望まれていない私は今後どのように生きていけばいいでしょうか。
新しく友人や恋人を作っても、いつか事件をバラされて失うばかりか相手にも迷惑をかけてしまうのなら
今後誰とも関わらずにずっと一人でいるしかないのでしょうか。
それだけのことをしたのだという罪悪感と将来への不安で潰れてしまいそうです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
向き合う心で、新しい景色が見え始めます。
拝読させていただきました。
何事も始まりがあれば、終わりがあります。
新たな始まりをするのならば、スタートラインに立つための準備をすることに専念することが大事になります。
今ループしている自己の縁をまず切ることが大切です。「SNS」などは特に止めることです。名前を変えようが、誰かに詮索されようが、えなさん自身の心に不安をいつまでも断たない縁を創り出してしまいます。
ネット社会の時代であるからこそ、ついて回ることの不安もあるかも知れません。
ただ、世には様々な刑を受刑され出所してくる人たちも数えきれないほどいます。日本社会は、更生し出所して生きにくい人生を歩ませないためにも姓を変更されるシステムをつくり出しています。
刑務所に入れば携帯電話や仕事や家族、友人すべてをシャットダウンさせられるのです。刑を受けなくとも罪を背負いながら生きている人もいます。
「刑務所」に入った気持ちで、懺悔することを。これは自己と向き合うということです。それはこれから長い人生を苦しみながら生きていかないために。
1.人生を笑って過ごしていく。
2.人生を苦しみながら過ごしていく。
どちらを取るかと選択肢があるならば、人は皆1を選択します。
仏教ではお経を上げる第一に「懺悔文」から始まり、懺悔したのち、心を清らかにしてから読経いたします。
・懺悔文を説明します。
我昔所造諸悪業
皆由無始貪瞋痴
従身語意之所生
一切我今皆懺悔
訳しますと
「わたしは、以前から為してきました様々な悪しき行いは、すべて始まりは、貪りと怒りと愚かさを原因として、身体と言葉と心によってなされたものであります。それら全てを今ことごとくみな懺悔いたします。」
となります。
自己が抱えた罪を懺悔することから始めることが、また新たな始まりを生むことに繋がる縁なのです。
お釈迦さまはこのような言葉を教えてくれています。
「汝が水を汲みだしたならば、舟は軽やかに進むであろう」
この言葉は、舟は自分自身の心を表しています。心の中に溜まった様々な罪を汲みだすことで、人生はまたスムーズに進んでいくと言ってくれたお言葉です。
こうして人は幾度と生きづらさや、行き詰まることもあるものです。ここに相談されたご縁をまた仏さまの救いがあると信じてください。
合掌