大学生活について
自分は一応国公立大学に進学する生徒が多い高校で、自分も国公立大学を目指していました。
より高いレベルで学習したいと思ったのと同時に私立大学は費用が高く親にも負担がかかると思い国公立を目指していました。結果として国公立大学に進学することはできず、私立も受験をしていなかったため後期にこの学校と県外の学校を受験し、専門学校も受けました。
正直、この学校には入りたくて入ったわけじゃありません。私立に行くとしたら一人暮らしでも県内のほうが費用は安く抑えられると思い入りました。
今2か月たちましたが、未だに志望していた大学に入ることが出来なかった悔しさと親への申し訳なさで心がつらいです。まだ、偏差値のいいところだったり有名なところだったら努力すれば就職も頑張ることが出来ると思っているのですが、この学校は申し訳ないんですが、頭のいい学校ではないかなと思い今の時点から心配なんです。
自分は親のためにも学校で頑張りたいと思い特待生で少しでも費用を抑えようとして勉強し続けています。
そのため毎日毎日勉強の事・お金の事・家族の事で心にゆとりを持ちことができない感じで周りの子のように学校生活を楽しむことが出来ません。また、評定がよくなるように勉強しているのですが、周りの子たちは出席が評定に入っている科目ではカードだけタッチして帰ってしまい一人で授業を受けることも多々あります。そのような人たちが課題をきちんとして仮に自分よりも評価が高かったらと思うと、ほんとに悔しくてつらいです。このような姿を見るとここに入ってしまった自分が切なくなってしまい親にも申し訳なく感じてしまうんです。
親はお金のことは気にすんなと言ってくれるのですが負担はかかっていると思います。なので、こんな学校行くべきじゃないのかなと思ってしまう時があります。編入や退学も考える時があります。人は人ですがこのような環境で学習していると…
今はほんとに学校が楽しくないんです。あまりゆとりがないんです。どのような気持ちで生活すればいいのかもわかりません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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多くの人は第一志望には入れない
私自身は、「お坊さんの学校(大学)」ということから志望校を選択しましたので第一志望に入れました。が、多くの人は第一志望の学校には入れません。たまに「マグレ」で実力以上の学校に合格する場合もありますが、たいていは第二志望以下の学校を選ぶことになります。だからあなたのお悩みは、普遍的といっていい悩みであるといえます。
失意のなかで合格した大学に入学しても、何がしかの「出合い」があれば、学生生活や有意義なものに変化します。勉強が面白くなった、クラブ活動の人間関係に恵まれた、などです。たいていは人とのつながりによるものですけど。
ところで、そもそもあなたは何のために大学に入学されたのでしょう? 学校の先生を例にとると、地元の教員養成系大学(私なら滋賀大教育)に入るのが順当で、いちばん有利でもあるわけです。しかし、それ以外の大学からでもいくらでも先生になっておられる。極端な話、先生の資格が取れたら、大学はどこでもいいわけです。滋賀大教育学部出身じゃない学校の先生なんて山ほどおられる。頭を切り替えて、入学できた大学で教員免許を取り、採用試験に合格したらいいだけの話です。
大学を偏差値やブランド力で評価していると、たいていは第二志望以下の大学に入ることになりますから、むなしくなってしまう。だけど、目的があったら切り替えていける。また、そんなもんなくても入った大学で出合いがあればいいけどそれがなければ、ホントつまんなくなってしまう。
そこで、そもそも論で、なぜ大学に入ろうとなさったのか、という原点に立ち返るとどうしたらいいかが見えてくると思うんです。そこから、できたら今の大学で積極的に学ぶ目的を見つけてほしいです。「ご縁」があった大学ですから。そのためには積極的に先生や同級生に交わる努力もしなきゃならないでしょう。
それがどうしてもできないなら、就職するとき、一浪と二浪では大きな違いがあるらしいので、出来るだけ速やかに方向転換することです。長々と迷っていてはいけません。大学の3年くらいで中退するケースもまま見られますが、年齢がいってしまうのでそれからの方向転換はとてもたいへんです。
ドンマイ。
人生の成功、失敗を考えるのはまだまだ早いです。
還暦過ぎてからにしてください。
第一希望の学校は一時の感情でなく、5年後、10年後にそれでも入りたい魅力があるならそこから勉強しても遅くはないです。
親への申し訳なさは今は不要です。
介護が必要になった親を自分の都合で見捨てるときにゴメンねでいいと思います。
わたしは蒔かれた場所で草木は芽を出し、花を咲かせることが重要だと考えます。
果を実らせるのは今じゃない。
腐るのも今じゃないです。
今は自身への養分を蓄えるとき。
大智度論という仏教の解説書の一説に『指し月の例え』があります。
月を指している指ばかり見て、月そのものを見てないことを戒めています。
サボることを目標にしてるなら、帰る子に学ぶのも一案。
でも、そうじゃないですよね。
シュンペー様にとって物足りなさを感じるなら、それはお客目線だから。
サボりの学生が多いけど、学校が運営できてるのは何で??
それを考えるのも一案ですよ。
学校は自身の身分を保証してくれる機能もあります。
今の環境だからこそ考えを深められること、今までの自分では見過ごしていた世界に気づく経験もできる場だと思います。
質問者からのお礼
ありがとうございます。
まだ立ち直れませんが前を向いて頑張ります