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観音経偈について

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私は普段『仏前勤行次第』を使用していますが、『念彼観音力』の読み方は『ねんびかんのんりき』となっています。

しかし他の観音経の経本を見ると読み方が
『ねんぴかんのんりき』となっています。

『ねんびかんのんりき』『ねんぴかんのんりき』どちらが正しいのでしょうか?

『び』と『ぴ』の違いなのであまり気にしなくて好きな方で唱えたらよいのでしょうか?

私はずっと『ねんびかんのんりき』と唱えていたので『ねんぴかんのんりき』はなんかしっくりきません。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

こんにちは。
 曹洞宗ですが、「ねんぴーかんのんりき」と読んでいますねぇ。 

 「彼」の字は「ひ」と読み、「ぴ」や「び」という読み方はないので、直前の「ん」の音に引っ張られて読みやすいように変化したのでしょう。どちらで読んでも良いと思いますよ。他のお経などでも、お経本によって読み仮名が違う事があるので、気にすることはないでしょう。

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・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoha回答僧登録。 好きな言葉は「和顔愛語」。和やかな顔と思いやりの言葉という意味です。曹洞宗開祖道元禅師は、愛語には世界を一変させる力があると仰っています。回答には厳しい言葉を入れることもありますが、相手を思いやる気持ちがあってこその言葉と捉え、受け止めていただきたいです。 ※質問の答えについて、話の大筋は変えませんが、投稿してから誤字脱字を直したり、内容をよりわかりやすくするため、若干加筆修正することがあります。ご了承ください。 ※「お礼」は必ず拝読していますが、それに対して回答の追記は原則しないことにしています。ご了承ください。 ・回答する件数は減っていますが、ほぼ全ての質問とつぶやきに目を通しています。
話すのが苦手なので、原則不可とさせていただいています。どうしても!という場合は運営さんに問い合わせてみてね。

そっちが解決したら今度は念彼観音力とは何かをテーマに

観音経のメインは観音力をあなたが授かること。自分自身の中の観音なる働きをあなた自身が会得・獲得・試してガッテン、ほんとにその通りじゃったわい!と納得することです。
どうして観音の力を念ずれば火の穴に突き落とされようが、津波にあおうが、山から突き落とされようが、無事でいられるのでしょう。
そこを今度は疑問、課題、テーマにされると仏道の良い目標になるでしょう。
私もこの観音力を念ずるということは長年の大きなテーマでした。
一体どういうことだろう?
その前に観音って、なんじゃ?
師匠は「仏だ菩薩だといってもな、別に頭がイボイボしたもんがどこかにおるもんじゃねぇぞ。ちゃんとどういうことか自分で明らかにしろ。」というタイプの師匠でしたので絵空事はNGでした。
答えを言うのは簡単です。
ですが、理屈で納得しても生老病死の苦界の波は避けられない。
🌊毎日、一刻一刻、一瞬一瞬が生老病死、四苦八苦、公案の波だらけ。
そこで「浮かばれる」ような観音功徳、如何にして実現し得るものなりや。
そういう要求心、求道心が王道の菩提心です。
昔の坊さんがこう言っとったぁ、経典に書いてあるんじゃからきっとそうなんじゃァということより、私どもの気の利いたアドバイス、助言よりも、本当に本当に自分が心底納得がいく答えを出す。
それが、あなた自身、私自身、世界中の一人一人が自分自身の問題に本当に決着がつくということではないでしょうか。
もし、「むむむ…」と関心を起こしていただけるようであれば、さらに観音経の真意を会得してみようという発心を起こしてみてください。
白隠禅師も昔の禅僧が盗賊に首を切られてその声が遠方にまで響いたということに疑念を抱き、大きな菩提心を奮い起こして立派な人になられました。
大疑団、大疑念を持つ。
それこそがあなたを真に無上の菩提に導く、観音の功徳、観音の力ともなるでしょう。
これをご覧になられた方も他人事とせず「自分はどうか?観音力とは何か真に会得しているだろうか?」と素直に向き合ってみることをお勧めします。この彼の観音力を念ずるとは人類一人一人が各自、自分自身の課題となさって、それを通じて自己の大真実を悟るための大いなる功徳です。
人は本当に向き合うべきことに本当に向き合わないものです。ほんとに向き合えば確かなる実りが必ず手に入るのですが、それをする人は少ないものです。合掌

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

光禪様、丹下覚元様コメントありがとうございました。

私は『ねんびかんのんりき』の方が慣れていて唱えやすいのでこれからも『び』で行こうと思います。

私は仏門に入ってはいませんが、これからも神道、仏道に精進いたします。

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