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子猫をひいてしまった。

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はじめまして
昨年大怪我をした猫が自宅庭に血だらけで来ました。動物病院へ相談をし餌を置いて馴れさせ捕獲して治療をしてもらい、結果罠にかけられ足先が無かったため外に戻すのは難しく家の中で飼育することに。
他に犬も飼っているのでこれからは自宅で飼うのは難しい為、それから来る子は去勢をして外へと戻していました。

1週間ほど前に母猫と4匹の子猫が来るようになり、小さいうちなら里親さんも見つかりやすいと思い保護しようと話していましたがまだ母猫から離すのは可哀想だと思い様子をみていた矢先、うちの車のボンネットの中に子猫が入っていたのを気づかず仕事へ向かいました。
主人は車に乗る前は車を叩いて乗っていないか注意して下回りも確認していました。なのでまさか乗り込んでいた事とは夢にも思わず車を走らせました。
20分ほど走って信号待ちして発車したときに何か踏んだ感じがありました…
助手席にいた私がミラーを見ると家に来ていた子猫ちゃんでした。
訳が分からなくなぜここにいるのかパニックになりながらすぐに引き返しましたがすでに亡くなっていました。
動物霊園に連れていき火葬してもらい共同墓地へ入れていただき、事故現場へお水と塩でお清めしました。
帰ると母猫が悲しい声で私を見て鳴きそれからずっと子猫を探しています。
その夜に1匹の子猫と1度だけ来ましたが他の子猫も来ません。
今は母猫だけしか来なくなり他の子猫はどうしたのか、まさか車に乗っていてどこかへ落としてしまったのか。
苦しくて苦しくて気が変になりそうです。
頑張って20分近くも車の中にいてやっと出れたのにひいてしまったなんて。

子猫が夜中に来てご飯を一生懸命食べている姿や母猫のシッポで遊んでいる姿が脳裏から離れず泣いてばかりの日々でどうしたら償えるのか、こんな酷いことをしてしまった事の後悔でいっぱいです。
もし餌やりしていなければ家に来ることもなく大きくなれたのに。
守ってあげるつもりが自分たちのせいで命を終わらせてしまったこと。
良かれと思ってやっていた事が間違えだったのか。今は何も考えられません。
猫の餌やりの場所にカメラを付けて家の中で見ているのですが、昨晩オーブの様な白い丸いものが長いこと漂っていました。
子猫が成仏できないのでしょうか。
今後どう償えばよいのでしょうか。
長文ですみませんが、よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなた達はよく頑張ったと思います。どうか自分達を責めないでください。
子猫達が子猫達の望む浄土で安らかでありますように。
合掌
もし次に同じようなことがあったら一旦親子を安全な家の中に入れてから里親探しするのが無難ですね。

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私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答していますが、無知未熟ゆえに質問を読ませていただくことしかできないことも多々ありますがお許しください。 回答は私個人の意見や解釈もあり、場合によっては浄土宗の教義とは少し異なることもあるということをご了承ください。 また、寺の紹介ページに電話相談についても紹介していますのでどなたでも気兼ねなくご利用ください。 ハスノハのお坊さんがもっと増えますように。 合掌 南無阿弥陀仏

無上心。自己の精神を善導し、その生命の尊厳を善導すべし。

どんなに痛々しいこと、地獄を味わおうがそれでも生きているこの我が身、わが命は今日、今朝、今晩の命の真実。死んでしまった命は死んでしまった命。ですが人間はだべなければ生きていけないから今日も頂いた命が我々の命へと吸収されています。
命そのものに差異はないといっても、それでもその命はそれぞれ別物。天下にただ一つの命。
いくらやタラコやとびっこと言っても、それぞれが個々別々の命。卵もお茶の葉もコメも小麦もみな命。
植物は植物、魚は魚、動物は動物。
野生動物は野生動物、自分でかわいがっていた愛着があるペットはペット。
見知らぬ人の死は、自身には響かないとしても身内の師は痛ましいもの。
命はそれぞれ違う、異なるとはいえ、同じ命でありながらも
その命が自分にとって「どのような」存在であるかがその命の存在の価値や大切さというものでしょう。
人間は唯物主義ではいけない。
者をモノとして軽んじるようになればドライな人間性になる。
仏教はそういう生き方を推奨しません。
だからと言って一章罪を償いなさいというヘビーな教えではありません。
あなたがその命との出会い、別れ、出来事、機縁、学び…、そこから自分の心・精神・魂・ソウル・志・心理的な方向性をどこ、どの場所、どちらの方向に向けていくか。その向かい先が悪ければ、あなた自身を損ない、その猫ちゃんも浮かばれないでしょう。
( `皿´)ノけっ、猫一匹ぐらいどうってことねぇよ、という考え方でよいでしょうか?いいえ、そういう命を軽んじる考えの人は結婚しても我が子や他人も損なうような生き方になる。人の痛みもわからない人になる。そういう心も地獄という。

だからこそ仏教は「この上ない心をおこせ」という。それが菩提心。発菩提心。
釈尊(お釈迦さま)も生老病死、四苦八苦の現実の中でこの苦しみから救われたいという志をおこされました。それが結果的に悟りに導き、多くの人を救ったのです。
ホントに悪いと思ったらその猫ちゃんの命をあなたの心の中でこの上ない心へ導いてあげるつもりで高く菩提心を奮い起こすことです。それこそが供養の精神。
愛する人や大事な人、存在を無(亡)くされたら、優れた人間性を持つ人々はみな、それを機縁として後に憂いが残らぬように自分の心を光輝く方向へ向かわせて自己や他の存在に恥じぬ生き方をなされたのです。あなたも同じ志を持つとよいでしょう。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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