人を殺したいとき
初めて相談させていただきます。
大学生の女です。
わたしは最近、人を殺したいという衝動が強くあります。
殺したい相手は嫌いな教授だったり、昔のバイト先の人たちだったり、コンビニの店員だったり色々なので、特に決まった人がいるわけではないです。
コンビニの店員がこっちをジロジロ見てくるとか、同僚とひそひそ話しているとか、なにかあるたびにカーッとなって頭が真っ白になります。
夜になるとどうしようもなく不条理な世の中と、その世の中で平然と生きている人間への憎しみが沸き上がってきて苦しいです。
人を殺したいと思っていないときはたいてい自殺することを考えているので、年中憂鬱です。
刃物を買い集めたり、縄を買ってきて軽く首を吊ったりして毎日をやり過ごしてきました。
心療内科にも行ってみたのですが、病気というほどでもないので薬で治療しようがないと言われました。
カウンセリングにも通っているのですが、先ほど書いたような話をしていくうちに「困ったな」と呆れられてしまい、わたしの心は治らないのではないかと不安になりました。
わたしは小さい頃から神経質で、中学校で不登校をしたり、アルバイトを始めたらストレスで不眠になったり、社会に適合できずに生きてきました。
社会はわたしのような人間を受け入れるようにはできていないのだと最近になって気づき、絶望を感じました。
今の社会には80万人ものニートがいて、その数字を見れば社会で生きていけない人間が一定数いることはわかります。
しかし、それが自分だと気づくと抵抗もしたくなります。
わたしは自分の人生に手を抜かずに、真っ当に生きてきたつもりです。
しかし、どこに行っても同じような人間、同じような環境、同じような世の中がわたしの行く先々に回り込んできて、なにも変わらないような閉塞感があります。
わたしはこれからどうしたらいいんでしょうか。
下手な文で長々と失礼いたしました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
オール・オア・ナッシングを見直しましょう
こんにちは。
端的に結論から言って、オール・オア・ナッシングを見直しましょう、これに尽きます。
通常、人間関係には「嫌い」があって当然です。
しかし、「嫌い」だからといって「人を殺したい」と直結するかというと決してそうではありません。そこには、むしろ自分が間違っているかもしれないという自省、「こっちをジロジロ見てくるとか、同僚とひそひそ話している」ということへの一方的な誤解、話し合う余地があるのではないかという深慮、どうやったら健全で建設的な方向に解決できるかという創意工夫、言い方や提案の仕方による余地、このような様々なクッションが「嫌い」と「人を殺したい」の間には重層的にあるはずです。
このような様々な踏むべき余地、手順、考え抜かねばならない要素が非常に多くあるにもかかわらず、あなたは「真っ当に生きてきたつもり」と自説を曲げていません。自分を見直す余地、再考への謙虚さが文面から感じにくいのが正直な感想です。
「どこに行っても同じような人間、同じような環境、同じような世の中がわたしの行く先々に回り込んできて、なにも変わらないような閉塞感が」あると、書いています。感じたままで感想を書くならば、原因は「なにも変わらない」のは「同じような人間、同じような環境、同じような世の中」にではなく、あなたが「変わらない」からこそ「閉塞感」が持続するのではないですか。
「世の中」、「同じような人間、同じような環境」がすべて間違っていて、あなただけが正しい、そんな現実があると本当にあるとあなたは思うのですか。あなたは「世の中」を十把一絡げに単純化すると共に、自分を過大に評価しすぎていませんか。
私は、これまでこの質問欄で様々な質問に回答させて頂くご縁を頂いていますが、そんなに単純化できるほど人を侮ることはできないし、自らを誇大に誇ることもできないと感じています。人間も、人生も人それぞれに複雑であり、必死なのです。
あなたは、相手の立場に立って考えること、言葉や心を尽くして人とコミュニケーションを取るという手段自体の存在や経験が不足している印象です。だから、自分の意に沿わないと「殺したい」という一足飛びに飛躍するのです。
人と人の間には、オール・オア・ナッシングではなく、重層的な段階があることを知るとともに、その段階を丁寧に踏んでいくことをお勧めします(字数制限)
是非 仏教学んで下さいませ…
『人を殺したいと思っていないときはたいてい自殺することを考えている』…あなたのご相談の肝要はここでしょうか。
ご相談内容がシビアだったので、当方勝手に気にしておりました…本当に御自身お辛い状況ですよね。
御僧侶御二方もあなたに怒っているわけではありませんし、「有り難し」を付けられたお方々も全くあなたに敵意はありませんから、そのことだけは申し上げたいと思います。
多分あなたは人を害することは出来ないでしょう…そして、それで良いのだと思います。
確かに御僧侶のおっしゃるように人を単純に判断しないことや、また歌などを聴いて思いを発散させることはとても大切だと思います。
そして、実は一番大切なことはあなたが「あなた御自身を簡単に判断しないこと」かと思います。
あなたはあなたが思うほど心荒んでいませんよね。また他の方のおっしゃることに耳を傾けることは大切ですが、全てを真摯に受け止めなくても良いのです。でないと全部 聞き入れようとしてパンクしてしまいます。
あなたはあなたとしてあなたの人生を歩んで良いのです。
他人のことはひとまず置いておきましょう。一々気にしなくて良いのです。相手もあなたのことをそれほど気にしていませんから。他の人がどのように生きていても放っておいて良いのです。
ともかくあなたが今後どう生きるか…それが大切です。そして、それはあなたが決めて良いのです。
生き方そのものに迷っていらっしゃるのなら、是非 仏教を学んで下さい…そこにこそ本当の生き方が説かれています。
心穏やかになれますよ…人を害する気持ちから離れることが出来ますよ…。
ブラックな唄を聴いて発散
最近流行りの「うっせえわ」という唄がありますね。
あの唄を聞く人の多くは、現実社会で上司等に「うっせえわ」とは言いにくいのを、歌の中で晴らしているのかもしれません。
私は、筋肉少女帯というバンドの「望みあるとしても(ノゾミ・カナエ・タマエ完結編)」という唄が好きです。
是非聞いてみて、そして、同じような歌詞のジャンルの若い人向けの曲を探してみてください。
要は、現実社会で殺人はできませんが、殺人をテーマにした唄を聴いたり歌ったりすることでけっこう発散できる可能性があると思います。
歌詞にこめられた色んな人々の感情を理解していくと、他人への慈悲の心も芽生えるかもしれません。
また、歌でも念仏でもお経でもそうですが、心をちょっと違う世界に集中させることで、イライラを冷まして楽しい気分や落ち着いた気分になることもあります。
感情をリセットするためのアイコンとして、念仏みたいなものに心を集中させてみましょう。
追記
私はあなたに怒っていませんよ。
質問者からのお礼
私が全面的に悪かったのでもう勘弁してください。
見ず知らずのお坊さんが私に怒りを感じていて、それに賛同している人たちが数多くいる。
それを思うだけで、何をしていても恐ろしくて頭が狂いそうです。
そもそも私の質問内容がそもそも攻撃的すぎましたし、怒りをむき出しにしすぎていました。
もうこういうことはしないので、本当にご容赦ください。
自分で質問しておいておかしなことを言っている自覚があります。
すべて私の責任です。
貴重なお時間を使って回答してくださって、本当にありがとうございました。