もし知らない誰かに殺されたら
もし、知らない誰かに殺されたら許すべきですか?或いは殺されかけて障害持ちになったらその人を許すべきですか?
人の怨みは集団であればあるほど増幅します。犯罪リスクも高まります。
この日本も例外ではありません。
いつ誰かに恨みを持たれて、その恨みを共有してなんていうことをしていたら、そいつ殺しちゃえば?と誰かが言ってその人は殺されてしまうかもしれません。
殺されて、或いは障害持ちになってもその人を許すべきか教えて下さい。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
そういう考え自体をやめることが赦しよりも強い心
まず、今、実際にそうなっていません。
実際に殺されていたらあなたはここに質問することもできません。
まずは、冷静に思考、正しく物事を考えること。
正しく物事を考えるために一番大事なことは、考えるあなたの頭自体、こころ自体、マインド自体、精神自体を「わるく・暗く・ネガティブに・悲観的に・卑屈に」させない明晰で善良で健全な思考を「させる」こと。それはあなたにしかできない。
人間は何を考えようが自由です。妄想もOK。ですが、その妄想も用い方がリアルになれば危ない心になる。小説家や脚本家は妄想を上手に用いて仕事にできるからある種の錬金術師。自分の持ち前の心、思い、想念は上手に用いることができないようであれば、結局あなた自身を傷つけたり、苦しめたり、恨みがましい人間性にしてしまう可能性があるのです。それは誰にでも言えること。
人間の悪意を生み出してしまう。
人を傷つけるような悪意ある人間もそうして生まれてしまうのです。
自分が自分の心を上手に制御できず、人としてやるべきではないことをやってしまう。
そんな人間がばかりでは困るでしょう。
だからこそ、心を善意に導くべきだ、と気づいた人は今日から今から、何度失敗しようが自分の心を悪い方向へ向かわせないようにする。そうになる。そうなるべきでしょう。
たとえ人生、過去においてどんなに嫌な経験をしたとしても、その後の苦しみ、悲しみを超えてその後、どっちの方向へ歩みを進めるかも悲しいことに本人次第。ですが、幸いにしてありがたいことに、まだまだ救いの道、心が晴れやかになる道、本当に容赦、赦しを超えて素面でまっとうな精神を保持できる第三、第四の道もあるのです!それが発菩提心。
人生はAかBかだけではないでしょう。人間は性善説・性悪説だけではない。
昨日の自分の心を蝕む悪意も何らかの善玉菌作用に振れれば心が転ずる。容赦、赦しの働きになる。
恨み続ければ残念ながら恨むという心のアクションをし続ける人の心に恨みの炎が燃えるものだから恨みの毒汁・毒素・毒心が生ずる。それは本人の中に、だけ。
だから、人間はたとえバイキンマンのような心病んだ人間がいたとしても、同じ土俵に立ってはいけない。人は変えられないにしてもこちらの善意・善玉菌は保持するべきなのです。大切なのは他人がどうかではなく、俺が!どうあるべきか?悪意に染まるべきか、善意を保持すべきか?
根本的にその人の人生観、人間観による
こんにちは。
人間は、縁に触れて変わる生き物です。
「殺されかけて障害持ちになった」時。
その犯人が泣き崩れて刑務所の中で毎日毎日罪悪感に苛まれていることを私が聞いたならば、そこには「許す」という気持ちが動くこともあるでしょう。しかし、その犯人が自らの行いを正当化し、それどころか被害者を嘲笑するようなことを周囲に手紙で書いていたとするならば。その場合、「許すべき」と思っていても、許せないこともあるでしょう。
許せるのか、許せないのか。
それは、根本的にその人の人生観、人間観によるところが大きいです。
しかるに犯罪被害だけを取り上げて、「許すべき」かどうかを論じてもあまり意味がありません。自分をどう見るか、考えるかが、結局の所他人をどう見て、考えるかになりますから。仏様を前提にする、しないでも大きな差があります。
あなた自身はどう考えますか。
「いつ誰かに恨みを持たれて、その恨みを共有してなんていうことをしていたら、そいつ殺しちゃえば?と誰かが言ってその人は殺されてしまうかもしれません」という仮定をあなたは述べています。
これは、過去の質問から考えると、他者からの悪口、悪意、「恨み」が自分に向けられていることを一般的な質問の形で書いているのだと思います。つまり、自分が将来実際にその対象になるのではないか、という観点での質問があなたの意図だと思います。
私は、あなたに他者に視点が行き過ぎていると指摘しました。
他者に心が占められすぎて、自分の領域が極小でありバランスに欠いている、と。
今回も同様の指摘です。
憐れみをかける
有り難いさま
「怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。」(ダンマパダ)
釈尊のお言葉であります。
更に仏教では、恨む者であっても慈悲をかけてあげられるように努力していくことになります。(皆、衆生は一様に無明・煩悩によりこの輪廻で同じように苦しんであるため)
今、私を害する者も、もしかしたらどこかの過去世で恩ある母であったかもしれないし、父であったかもしれないし、親友であったかもしれません。今はただどうにも仕方のない悪縁によりて、そのようになってしまっており、どうにかその悪縁を良縁にしてあげれればその者もきっとそんな悪いことはせずに善い行いに努められることにもなるでしょう。
憐れみをかけてあげたいところとなります。
また、仏教において大切となるその慈悲の育みは、そのような恨む者、つまり、敵がいてこそできることでもあり、六波羅蜜の一つ、忍辱波羅蜜を実践する上での偉大なる先生、有り難く尊い存在、善き者とさえ考えるところとなります。
このあたりのことはもちろん、今は到底理解し難いとは存じますが、よろしければ、シャーンティーデーヴァ大師の「入菩薩行論」をしっかりと一つ一つ学ばれて頂けましたら。8章までならば、下記で無料の和訳PDFもございます。
https://www.tibethouse.jp/about/buddhism/text/
6章「忍辱」
https://www.tibethouse.jp/about/buddhism/text/pdfs/Bodhisattvas_way_JP_chapter6_201612.pdf
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
三者三様のご意見ありがとうございます。
川口 英俊様、釈尊様のありがたい言葉の真理から、慈悲を育てる心は敵が居てこそ成り立つ、まさしくその通りだと思います。釋 悠水様、確かに以前、面談でお話しされた事と同じですね。何度もお騒がせして申し訳ございません。心を他人に占領され続けない、自分の領域をきちんと確保するでした。丹下覚元様、同じ土俵に立たないで、他人ではなく、自分が善意をどう保持するかが課題である、確かにその通りですね。
沢山のコメントありがとうございました。