復縁したけど別れたい
復縁したけど別れたい、何かアドバイスをいただけないでしょうか。
3ヶ月ほど前に、1年半付き合った彼氏と別れました。私から別れを告げたのですが、理由は価値観が合わなかったからです。
付き合っている頃、私の意見を尊重してくれたことがほとんどありませんでした。
彼は自分が理解できないことは否定し、最終的には私が謝るという形の話し合いを何度もしてきました。
その度に心は疲弊し、ここまで話しても通じないということは、お互いの価値観の違いや波長の合わなさがあまりにも大きいことが原因なのではないかと考えるようになりました。
それらを踏まえた上でも彼のことが好きだったのでそばにいたのですが、あまりにも自分勝手な彼の言動に限界が来て別れを告げました。
しかし別れてから1ヶ月後、もしかしたら私の考え方がおかしかったのかもしれない、彼は悪くなかったのかもしれないという自責の念や寂しさにかられて、自分から彼に連絡をとってしまいました。
すると彼は、素っ気なく返事をしながらも復縁の話を持ち出してきました。復縁する気がないなら話す時間も無駄だと言われ、純粋に話がしたい、会いたいと考えていたので、復縁を承諾しました。
そこから会って話して、彼も前より少し変わっているという印象を受けました。そして自分自身の考え方も成長していたので上手くいく、そう思っていたのですが...
やはり彼の内面は変わっておらず、別れる直前の気持ちに戻ってしまっている状況です。そして、彼に対しての恋愛感情はほとんどなくなってしまっていたことにも気が付きました。
振った立場である私が、彼に連絡を取ってしまったこと自体、彼を振り回す行為になってしまったと自覚しています。
話したいという衝動に駆られてとったこの行動は、非常に自分勝手であったと反省しています。
別れたいという気持ちがあるのに付き合い続けるのは彼にも失礼なので早く想いを伝えるか、それとも振り回してしまった分しっかりと反省して責任を取るか、自分がどうすればいいのか、どうしたいのかも分からなくなってしまっています。
長文失礼いたしました。何かお声掛けいただけますと幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「別れたい」のだから「別れ」ましょう
こんにちは。
まず、結論からいいますと「別れたい」のだから、「別れ」ましょう。
どんなに彼氏に非難されようとも。
これは、仕事のお話ではありません。
ごくごくプライベートな男女関係の話であり、あなたの人生の問題です。
「振り回してしまった分しっかりと反省して責任を取る」というのは仕事ならいざしらず、あなたが「別れたい」といえばそれで終了です。それでいいのです。
どうやら、お二人の間には対等の関係というより、主従の関係のような色合いが濃かったようです。「彼は自分が理解できないことは否定し、最終的には私が謝るという形の話し合いを何度もしてき」た。あなたとは「意見を尊重してくれたことがほとんど」なかったのでしょう。それは、対等の関係ではありません。
「価値観が合わな」くてもいいのです。
育った環境や、性差等々あるのだからむしろ違いがあって同然です。しかし、その違いを対等に話し合い、時に省み、時に反論し、時に採り入れつつ少しづつ変わっていけるのが、人間関係の醍醐味です。
しかるに、上下関係は対等な人間関係の良さが実感しにくいものです。そこには、命令や服従、忠誠が求められこそすれ、意見は求められていません。あなたと彼氏さんの関係はまさに、その主従のような関係になっていたのではないでしょうか。
単純に「純粋に話がしたい、会いたい」という動機で連絡を取ったあなたは、今回いつの間にか「復縁」という流れに違和感を感じながらも承諾してしまった。それは、「復縁する気がないなら話す時間も無駄だ」という彼氏さんの圧に負けてしまったのでしょう。
彼氏さんの視点から言えば、出奔した不忠の臣が前非を悔いて臣従を再び申し出てきた、と映ったのだと思います。だから、「復縁する気がないなら話す時間も無駄だ」という上からの目線になっていたのでしょう。やはり、対等の関係は難しそうです。
以上のことより、冒頭に言いましたように「別れたい」のだから「別れ」ましょう、それでいいのだと思います。
別れたいという気持ちがあるのに付き合い続けるのは彼にも失礼。
なぜ価値観の正反対な者同士が惹かれ合うのか
るんさま
もともと価値観というものは、誰とも同一になることはありえません。
例えば、私が認識しているもの、その対象は同じものであっても、捉えているそれぞれでその対象のものの価値、意味、内容は異なってしまっているのであります。
同じモノを見ていても、同じようには捉えてはいないのです。
過去拙回答ともかぶりますが、一つの物事でも、立場に応じて見方、捉え方が変わってしまう例えとして、仏教では「一水四見」という言葉がございます。
私たち人間にとっては「水」であっても、天人にとっては宝石、魚にとっては住処、餓鬼にとっては火と、それぞれで捉え方が異なってしまっているという例えです。
更に、仏教における唯識思想から考えれば、この世界の顕れの捉え方の複雑さについて、より知れることになります。
一つのモノを見ても、実は、それぞれ、はるか昔の過去世からの心(の阿頼耶識)に薫習された習気(薫りが染み付いたようにそのモノコトを捉える習性)が、そのモノを捉えているという複雑な認識構造を知ることができます。
要は、誰一人として、誰かと同じように、そのモノ・コト(の意味や価値や理由も含めて)を捉えていることはもともとあり得ないということなのでもあります。
阿頼耶識(心)のありようが、当然に皆それぞれ指紋の如くに異なっているからであります。要は捉えている脳(身)の違い、脳のシワの違いにも近いものであります。
価値観が合うということはもともとありえないこととして、あとは、どう折り合って、妥協して、お互いにより良く過ごせられるようにできるかであります。
まあ本能的なこともあるでしょう。生物学的には、同じような遺伝子構造(病気耐性・環境耐性)、同じような思考構造(価値観も含めて)を持つ者同士が子孫を残そうとするのでは、先で絶滅のリスクを高める事になりかねません。なぜなら、環境の急変にうまく対応できずに同じような遺伝子構造・思考構造では、死ぬリスクが高くなるからであります。
ですからそういったリスクを回避するために、異なる遺伝子構造、異なる思考構造を持つ者同士で、ある程度先のリスクに対応できる子孫を残そうとする本能的なものがあります。
価値観の正反対な者同士が、何故か惹かれ合うというのは無いわけではないということなのであります。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
川口英俊 様
和田隆恩 様
釋悠水 様
ご回答いただきありがとうこざいます。先日、彼には別れを告げました。価値観が合う合わないではなく、認め合えるかどうかが重要だと気付きました。
別れを告げたときかなり暴言を吐かれましたが、自分の選択に後悔はなく、今とても幸せです。
相談をしたことで色々な気付きを得ることができました。本当にありがとうございました。