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親の束縛から逃げたい

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親の束縛・依存から逃げたいです。

私の母は昔から、自分の常識で物事を測り他社の意見は全く受け付けません。
もちろん娘の意見も同様で、今まで進路から人間関係まで、逐一指導(母がよく使う言葉です)されてきました。
学生の頃は独り立ちすれば収まるだろうと放置していたのですが、既に社会人として自立した今も母からの依存は止まりません。

この夏、私は結婚を考えている恋人を紹介するために実家に帰ろうと思っています。
その事を母に話すと、「会ってあげてもいいけど、外で食事する程度にして」「その日中に1人で帰ってもらって、お前は家に帰ってこい」と言います。
せっかく遠方まで挨拶に来てくれる人を無下に扱った上に、1人で帰すようなことは常識的でしょうか。
普通は「せっかく来てくれたのたからゆっくりしていって」と言うものでは無いでしょうか。
「ちゃんと挨拶させて欲しい」という彼の気持ちをぞんざいに扱われたようで、怒りがわきます。

母が私の大切なものを否定するのは今に始まったことではありませんが、正直もう母のアクセサリーとして生きるのは我慢の限界です。
これ以上私の大切なものや人を否定し続け、私に服従を強要するなら親子の縁も切りたいと思っています。

親は子を尊重するものではないのでしょうか。それとも子供は一生親の言いなりになるべきでしょうか。
いい歳をして反抗期のようなことを申し大変恥ずかしい限りですが、ぜひお知恵をお貸しください。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

最高最上の尊重 最高最上の尊厳は全自動で良好な関係に

人間、リスペクトの精神を極めれば相手がだれであっても人間関係はおのずから解決です。
尊重・尊厳というものをとことん極めれば家族でも愛する人でも「わたくし」ナイズすることはなくなるものです。
どちらかが毒親・毒子であってもどちらかが最上のリスペクト精神を届けて相手がそれを受け取れなければそれは相手の問題。
昨今家庭において神仏や宗教を敬わない人たちは自分が神様仏様以上に偉くなってしまう。それは人間のエゴ。人間が尊重・尊厳重視・天地自然の大きな立場でものを眺めたら人間のエゴなどは小さなこと。
そのくらいデカい視点に立って、まず親子関係も彼との関係も見つめなおすことです。
親が70,80になっても尊敬できない人間性のまま死んでいくというのは哀しいこと。
子供から見て自分の親はもうちょっと人間性を高めてほしいと願うのであれば、場合によっては子供側が諭しても良いのではないでしょうか。なぜなら、人間60、70になれば人間性が丸くなるかと言えばそういうもんでもないからです。
ただでさえ、他人の家庭の人の人間性にあれこれ口は出せません。わが家のことはご自身がお気づきになられたのであればあなたが上手に親子の関係を壊さないように上手にバランスを取りながら感情的にならぬよう諭すべきでしょう。
逆にいずれご夫婦になられるパートナーの方にも当然親がある。
いずれあなたが関わることになった際に今度はご主人サイドの方で気苦労を持つことも起こるでしょう。
そういう時もあなたが人間性の極みの精神を持っていれば、相手のご家族のことも自分のお母さまとのことで揉めることが苦しいように相手の方の気持ちもわかるようになるでしょう。
世の中の親子、嫁シュートメ、嫁、コジュート、フーフ、オヤコの関係を笑えるようになりましょう。
そのためには、あなたが菩提心という大きな宗教精神をもって、人間のがめついエゴの浅ましさを悟り、たかだか数十年100年の人生、さっさと人間のサガを悟って泥沼人間関係争論をいなせるようになること、あるのみ。
出家精神とは別に親子の縁を切るとかではありません。
結婚というのはただでさえ自分の家庭ですらうまくいかない人間関係がさらに複雑になる岐路に立つのです。精神的に本当の大人(おとな)、大人(だいにん)を目指すことで母親呪縛からも自立して、上手な距離感で、お互いに傷つかないようになれるでしょう。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございました

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