hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

これは愛ですか?

回答数回答 2
有り難し有り難し 10

私には長く交際している遠距離の彼氏がいます。彼は一つ年上で、コロナ過に入る前は半年に一回会っていました

そんな彼は直ぐに身体を壊してしまう私の事を心配してくれたり、いいところがない私のいいところを見つけてくれたり、とても素敵な人です

でも、だからこそ不安になるときがあります。自分より素敵な人がいるはずじゃないか、自分の存在が彼の幸せを邪魔してしまうのではないかと。それで別れ話をしたこともありましたが、全て却下されました

そのまま交際は続いて、彼は私を愛してくれてるけど、私は私が彼を愛しているのか単に愛してくれてるから執着しているのか分からなくなっています

これは、愛と呼べますか?


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

それは愛です

相手の男性にとって自分は相応しい相手じゃないんじゃないかとか、自分がいない方が相手にとってよいのではないかとか考えるのは、愛があるからに他なりません。相手のことを本当に好きじゃないと起こってこない感情です。

相手の男性があなたに、そんなふうにおっしゃっているなら、その男性もやはりあなたを好きなのでしょうから、あまり悩まずに流れに任せるのがいちばんよいように思います。

結果として、遠距離の彼に新しい女性が現れるかもしれないし、あなたが素敵な男性に出合うかもしれない。先のことは誰にも分からない。だから、第三者の私が、かならず、ということは出来ません。が、いまはその男性との愛を大切になさる、お互いを信じるのがよいように思います。どうかお幸せに。

{{count}}
有り難し
おきもち

個別相談可能
私はお坊さんといっても、ひと様に何か答えらしいものを提示できるような立派な者ではありません。むしろその逆で、しょっちゅう周りの方々にお尋ねして、教えてもらって生きています。質問について考え、答えようと悩むことで私自身が学び、僧侶として少しでも成長していけたら、と思っています。 youtube法話を始めました。私の名前ですぐ見つけていただきます。
本堂までWi-Fiの電波が届かないので、お内仏(家のお仏壇)のお部屋でお話します。

本心が知っている

愛にもいろいろあります。
自己愛、我愛、ナルシストなエゴ愛もあれば互いに都合が良ければご都合愛。
見返りを求めない愛もあれば、相手を選ばない博愛もあります。
愛する人に愛する人の大好きなものを上げたいからと言っても毎日脂っこいものを食べさせれば愛する人は死んでしまいます。相手が死んでくれて都合がいいのか悪いのか。いいえ、愛はそういう都合で判断するべきものでもないわけですから、あなたもあなた自身を愛するように、相手にも愛する家族があり、彼自身を愛してくれた家族があるわけですから、愛というものを自発的にも多発的にも愛の作用や働きを深く見つめて慈悲・慈愛の精神で損ねられることのない高みにまで愛をついきゅうすることで相手が誰であっても自分も相手をも安らぎに導く愛の表現者となることでしょう。
愛はPAYではありません。
愛は条件付けでも都合でもありません。
あなたが好きな花や音楽に条件付けはないはずです。
彼のことをイイ人と思っていたとしても、心底本心が「うーむ」と迷うようであれば愛とは言えないかもしれませんが、多少の妥協愛から真実愛に発展することもあるものです。
人間は誰よりも自分を愛しているのだからこそ、その自分自身を大事にしてくれる人を大事にするべきでしょう。人は人を愛し、この世を愛し、家族を持つ人間同士を愛し、万国万人に共通する愛によって愛のレベルが高まっていくものです。
お釈迦さまのところに夫婦喧嘩をされた王様とお妃さまが訪れたそうです。
どっちも伴侶よりも「自分が大事じゃ」というので夫婦げんかになったそうです。
そこのところをそれでいいのかとお釈迦様にお伺いしたところ「人間は誰でも自分が大事であり、自分を誰よりも愛する気質がある。だからこそ、相手にも自分を愛おしいと思う気持ちがあるのだからこそ、その相手を尊重してあげることで互いに尊重し合える真実の愛が生まれる」ということを説いておられます。

よって、いわゆる恋愛の愛というよりも尊厳や尊重の精神を持たせてみましょう。
相手の命を尊いと感じるかどうか。
人間の都合の愛は我愛です。
そこから一歩愛の歩みを進める。
お互いに自分のこそが誰よりも尊いのだという大前提をきちんとさらけ出して話し合える関係になれるかどうか。そのうえで互いに尊重できる愛こそは真実の愛へと開かれていく大きな愛となることでしょう。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。自信が無いが故に不安になっていましたが、回答を見て安心することができました。未来は分からないけど、今は自分の気持ちにも自信を持って互いを大切にして生きて行きます

自分が無意識に愛の形を枠にはめようとしていたことに気付きました。王様と妃様の話も面白く興味深くて、参考になりました

煩悩スッキリコラムまとめ