受精卵(胚)は命でしょうか、なにか供養はできますか。
夫の乏精子症のため不妊治療で顕微授精をし、受精卵をつくりました。
幸いなことに、比較的早い時期に二人の子供を出産する事が出来ました。
しかし、胎児にすらなれなかった胚のことが気にかかっています。
最終的に体に戻せる状態だったのが13個
もっとも状態の良い一つはすぐに着床を試み、残りは凍結して保存することに。
医師は「保存する管が6本だから、二個ずつ保存する」と言いましたが、
「双子はなるべく避けたいので、状態の良いものから6個選んで一つずつ凍結を」とお願いしました。
最終的に、新鮮卵で一人目を妊娠、出産
凍結保存した卵で二人目を妊娠、出産
凍結卵の移植は一回失敗(着床せず)、
また一つは解凍した時点で死滅しており、
残りは医院の方針で施術から二年経過で廃棄するしかありませんでした。
まず凍結保存の段階で「選別」してしまったという後ろめたさがあり
失敗で胎児になれなかったものや
お腹に戻せば命になったかもしれないのに廃棄になったもののことを思い
毎年施術した9月になると思いだして落ち込んでしまいます。
私の中では、施術の日を「慰霊の日」として、せめて自分だけは存在を忘れないようにしようと思っています。
主人も最初は同情してくれましたが、最近はすっかり忘れてカレンダーの印を「これは何?」と聞いてきます。
受精卵は命でしょうか?なにかしてあげられることはありませんか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
いのちであるし、追悼できます。
EYさん、はじめまして。石田といいます。
「受精卵(胚)は命かどうか?」という問いには、EYさん自身が質問後半部をもって答えられているようです。つまり、命であると。また、質問後半の「なにか供養はできるか?」という問いにもEYさんが方向性を与えているようです。できる、と。
その考え方を支持いたします。
仏教では死と生とを分割して考えません。死と生とは連続したものであり、表裏一体のものと捉えます。死の理由・原因は、病気や事故ではなく「生まれたから」と捉えます。
仏教の観点から言えば、受精卵(胚)は、因と縁とによって生起し、やがて終わっていく、多くのいのちとおなじいのちと捉えられます。
受精卵(胚)は、精子と卵子との合一によって誕生した、やがてヒト個体に成長し、この世との縁が尽き、やがて終わっていく、そのような可能性をもった一つの「いのち」です。
iPS細胞の何が衝撃だったかと言えば、ES細胞が受精卵(胚)由来であるのに対し、iPS細胞はその概念の誕生過程と研究過程にあっては受精卵由来でありつつ、物理的な生成と存在には受精卵(胚)を必要としない点でした。
いわゆる「不妊治療」は本当に「治療」と言えるのか?ということも含め、その「治療」の諸段階を経るうちにヒト胚の生成・破壊が必須とされる場合があるのに、その充分な説明や理解がないまま、倫理的な部分を置き去りにしたままで事実だけが進んで行きがちであることは、今なお世界的な大問題であるままに推移していると理解しています。
先頃、島薗進さんが『いのちを“つくって”もいいですか?』(NHK出版)を上梓されました。関連した課題を扱ってくださっています。何らかの心の助けになるかもしれません(ならないかもしれません)。よろしければ、どうぞ。
「供養」は宗派によって捉え方がさまざまです。わたしの宗派では追善供養・慰霊はありませんが「追悼」は受精卵に対してもできます。私事ですが、わたし自身にも似たような記念日があります。受精卵よりは成長したいのちに対して、妻と二人ささやかながら追悼をするつもりでおります。二人で受け止めていく。が、今後は別の日に統合するかたちでの追悼になるやも知れません。
幸福と再会を信じて、手を合わせましょう
11世紀にスリランカで書かれた「アビダンマッタサンガハ」という仏教書があります。そのなかで、生命の始まりについて「1週目はカララ(浄水)、2週目に泡になり、3週目に柔らかい肉片になり、4週目に卵型の固い肉片になり、5週目に手足となるコブができ…」と書かれています。エコーも顕微鏡もない時代に、すごいの一言です。カララは両親の精子・卵子が合わさり、そこに有情(心)が入ることによってできあがるため、受精の瞬間から命であると私は先生から教わりました。
さて私は長女を産んだ後、3回流産しています。
3度目ともなると慎重を期して安静に、流産予防の注射に入院までして、手足の動きが見えるまで大きく育てたのに、亡くなってしまいました。落ち込みましたよ。その後にやってきたのが双子でした。ただでさえ双胎というハイリスク、成長も遅い。二人とも無事に産めるなんて思えませんでしたが……生まれてきてくれました。周囲の心配をはねのけるように、力強く育ってこの世に出てきました。
お医者さんは環境を整える手助けをしてくださいます。見た目で「可能性が高い、低い」の判断はしてくださいます。でも、結局はその子に生まれてくる力があるか、そういう業を持っているかどうか。そう私は感じました。
廃棄した胚に対する思い、当然だと思います。
うまく言えませんが、私は、この世に産んだ3人の子も、産めなかった3人の子も、みんな私の子供だと思っています。4週の子は4週分の命、8週の子は8週分の命を、精一杯生きてくれました。それで充分です。目に見ることはできなかったけれども、人間界に生まれるだけの善い業をもって、私を母として現れてくれた命なのだから、きっと過去世でも後の世でも、なんらかの形で関わり続けるのではないかと…。
EYさんのなかで大切に想い続けてもらえる命は幸せだと思います。できることなら「ごめんね」という悲しみではなく、次の世界で幸せに過ごしていること、また別の形で再会できることを信じて手を合わせて頂きたいです。
本当にお辛いことと思います。
私も「命」と考えます。
享年は数え歳(満年齢+1歳)のことが多かったのも、
お母さんのお腹の中に居た期間も加えてのことだと聞いたことがあります。
そう考えれば、
受精してからが命の始まりなんだと、
昔の人は考えたのでしょうね。
亡くなった方は、
何歳であろうと、
どのような死因であろうと、
誰もが仏さまに救われて成仏します。
その受精卵たちも成仏しています。
「申し訳ない」という気持ちだけでなく、
「ありがとう」という感謝も込めて、
供養していただけたらと思います。
むずかしい問題です。
EY様
こんばんは
仏教の教えが説かれた時代には当然の事ですが、顕微授精などの技術は無く、仏典の中で命は前世の寿命を終えた後、中有(前世と今世の中間的状態)を経て、受胎するとありますから、体外で受精した時点で命が入っているのか、胎内に入った時点で命が入るのか確定的な事は申し上げられません。
ただ、ご夫婦でお子様を望んで、お二人の命の一部が合わさった受精卵を、お二人のご分身として心に思われる事は、良い事だと思います。
前世の寿命を終えた意識が、今世のお母さんの胎内に入る時は、仲の良い一組の男女に特別な感情を起こして入ると言われます。
お生まれになっているお子様をお二人で仲良く育て、ご相談されているようないのちを大切に思われるお心を持って、良い家庭を築く一つの縁として捉えて頂けば有り難い事だと思います。
お経をあげてもらいましょう(^-^)
EYさま
とてもお優しい心の持ち主でいらっしゃいますね。(^^)
それなら供養してもらったらいいと思います。
お経をあげてもらいあなた自身の心の中にあるものをすっきりとしてもらいましょう。お子さんのためにも受精卵たちのためにも、あなたが悩みから解放されることが大切です。
命と捉え供養するのが一番です。
質問者からのお礼
誰にも言えず、ずっともやもやしてきましたが、自分の気持ちは間違っていないのだと思う事が出来ました。ありがとうございました。同じような相談をネットの掲示板で見かけましたが、「自分勝手に命を操作しておいて、揚げ句に自分の都合で捨てておいて、今更何を言っているんだ」といった書き込みが多く、目を覆いたくなったこともありました。私と同じく、もやもやしている人は他にもたくさんいらっしゃるかもしれません。勇気を出してご相談して良かったです。
また折を見て、何か供養もしくは追悼のような事をしてあげられたらと思います。お経をあげてもらう、というのも、心情的に違和感は無く、良いアイディアだと思いました。そして「受精卵への供養(追悼)なんて、お寺でしてもらえるのかな?」という漠然とした不安は、杞憂だったみたいですね!
そして、供養を終えてこのことはサッパリ忘れて生きる、というのではなく、(儀式の有無にかかわらず)常に存在を心にとめて、「お母さんのそばにいてくれてありがとう。この世では人間の親子として対面することは無かったけれど、またいつの世かでご縁があって出会えるといいね。」と語りかけ続けていきたいと思います。同じ「忘れられない」でも、「後ろめたさ」とともに思い出すか「感謝」とともに思い出すかでは全然違います。ありがとうございました。