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仏様は普段どこにいるのでしょうか

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毎年お盆が来ると、仏様が普段どこにいるのかが気になります。
お盆の時のみ迎え火、送り火などをして仏様を迎え送りますが、その他の日はどこにいるのでしょうか??
宜しくお願い致します。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

いつでも あなたの側にいらっしゃいますよ。

お盆に関係なく
常にいらっしゃいます。
手を合わせれば
あなたの目の前にいらっしゃいます。

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おきもち

 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生まれ。山形大学理学部卒業後、証券会社で勤務。30歳で脱サラし、親戚筋の超覚寺に入寺、45歳で住職継職。  遺族の分かち合いやお悩み相談などグリーフサポート活動を続け、お寺の掲示板による法語伝道にも尽力している。カープ坊主の会会員。
こちらに法事が入っていなければ、ご希望の日時に相談させていただきます。 想いを吐き出しても、あなたの環境は変わりませんが、あなたの気持ちは変わっていきます。 どうぞ安心してお話しください。

仏身は法界に常に充満し、あまねく一切の存在の前に現ず。

お経の一説にこのようなものがあります。
「仏身は法界に充満し、普く一切群生の前に現ず。縁に従い、感に赴いて周ねからずということなし、而も常に、此の菩提の座に処したもう。」
拙僧メタル訳
「人間界を救済する仏の救いのはたらき・浄化の作用というものは世界中、いつでも、どこでも、誰の上にもある。(あるがそれに気づかない)あらゆるところに満ちている。それはこの身心が触れる一切の事象の中に見出されるべき素晴らしい働きである。この身がことに触れ、なんらかの作用、はたらき、縁に触れるたびに、この身に映し出される一切の働き。それらには、それそのものとして我々の人間の見解を介入させる以前の姿がある。それが仏である。その姿はまさに最上、最高の作用、仏なるもの“仏身”である。法界に充満し、いつでもそこに何もないということがない。自己の能動的な心象作用の活動をやめて見解を一切捨て去った時、人間は悟りの様子に至る。その心で事に触れるとき、仏ならざるものがない。」

仏さまの「作用」というものを意識してみましょう。
仏さまとは、人間や存在そのものの持つ最高最上のはらたきのこと。
亡き人の存在も仏の作用。
心を向かわせるか向かわせないかだけのことなのです。
お盆とは、宗教行事として年に一度、家庭の精霊棚に先亡様をお招きをするという行事であって、お盆でない時でも故人様の影響力や作用がないわけではありません。
救いや癒し、導き、成長にむかわせる慈悲・慈愛。
そのはたらきは「見よう」とすれば、あるべきところいたるところに見出すことができるのです。
たとえば、テレビをつければ過去・現在の映像がながれている。
この一つだけでも実は尊いことです。
全国に同時にその場に行かなくても、起こっていることが映せる。見える。
人類の叡智によって生み出された時代の最先端のものを授かり・めぐみ=供養・布施として授かっているでしょう。
それだって先人さまたちからのメッセージ、バトン、プレゼントなのだと受け取ることもできませんか?
“仏心・仏身”は法界につねに充満しているのです。
この画面、文字だって実にすばらしい仕組みでしょう。誰が文字を作ったのか。誰が、このネットの仕組みを作ってくださったのか。一切が命を共有する我々と同じ人間が作ってくれた素晴らしい働きです。
大切なのは向き合う気持ち、自己を見つめるこころなのです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

ご先祖様と仏様のご在所

ここもんさま

亡くなられたご先祖様方は、それぞれの業縁に従っての生まれ先にいらっしゃることでしょう。生前、過去世における仏縁、心に培われた善き功徳や智慧、業のありよう次第にもなって参ります。

お盆には、ご先祖様方は、この娑婆の縁のあったところに帰ってくるとして、丁重にお迎えし、お膳のお供え、提灯のお供え、また供養等をして、そして、お送りするということを風習的に行いますが、あくまでもこちらに残されてある側における「そうあってほしい」という希望的なところが大であり、実際に帰って来られるかどうかと申しましたら、その確率はかなり低いであろうかと存じます。全くありえないということではありませんが・・

いずれにしても、お盆という期間は、お休み、帰省等にて、亡くなられた方のことを偲び、弔うということで、追善供養を行うに適した期間であるかとは存じます。

追善供養のことにつきましては、下記拙法話を参考下さい。

法話「追善供養」


次に、本当に悟りを開かれた仏、如来に関しましては、娑婆世界には、現在、お釈迦様がご入滅なさられて以来、仏、如来は不在となっておりますが、お釈迦様の法身によるお加持のお力はまだ残っている状態でございます。(私たちが実際に相見えられる、教えを直接頂けるお姿である応身や報身は見当たらないということでもあります。次に、仏の応身や報身がこの娑婆世界に現れるのは、約56億7千万年後に弥勒菩薩が下生されてからとなります。また、娑婆以外の他の浄土では、如来が応身や報身にて在世されているところもたくさんございます。)

「仏身は法界に充満し、普く一切群生の前に現ず。縁に従い、感に赴いて周ねからずということなし、而も常に、此の菩提の座に処したもう。」と丹下さんが引用されておられます中での「仏身」というのは、今の娑婆世界では、お釈迦様の法身におけるそのお加持のお力のことであると言えるでしょう。

また、「仏身」=「真理のお身体のこと」=「真理そのもののありようのこと」とすれば、一切「空性」という全ての真理そのこととして理解できるものにもなります。

川口英俊 合掌

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