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仏様は普段どこにいるのでしょうか

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毎年お盆が来ると、仏様が普段どこにいるのかが気になります。
お盆の時のみ迎え火、送り火などをして仏様を迎え送りますが、その他の日はどこにいるのでしょうか??
宜しくお願い致します。

2021年8月14日 14:12

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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

いつでも あなたの側にいらっしゃいますよ。

お盆に関係なく
常にいらっしゃいます。
手を合わせれば
あなたの目の前にいらっしゃいます。

2021年8月15日 20:00
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有り難し
おきもち

和田隆恩
 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生ま...
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仏身は法界に常に充満し、あまねく一切の存在の前に現ず。

お経の一説にこのようなものがあります。
「仏身は法界に充満し、普く一切群生の前に現ず。縁に従い、感に赴いて周ねからずということなし、而も常に、此の菩提の座に処したもう。」
拙僧メタル訳
「人間界を救済する仏の救いのはたらき・浄化の作用というものは世界中、いつでも、どこでも、誰の上にもある。(あるがそれに気づかない)あらゆるところに満ちている。それはこの身心が触れる一切の事象の中に見出されるべき素晴らしい働きである。この身がことに触れ、なんらかの作用、はたらき、縁に触れるたびに、この身に映し出される一切の働き。それらには、それそのものとして我々の人間の見解を介入させる以前の姿がある。それが仏である。その姿はまさに最上、最高の作用、仏なるもの“仏身”である。法界に充満し、いつでもそこに何もないということがない。自己の能動的な心象作用の活動をやめて見解を一切捨て去った時、人間は悟りの様子に至る。その心で事に触れるとき、仏ならざるものがない。」

仏さまの「作用」というものを意識してみましょう。
仏さまとは、人間や存在そのものの持つ最高最上のはらたきのこと。
亡き人の存在も仏の作用。
心を向かわせるか向かわせないかだけのことなのです。
お盆とは、宗教行事として年に一度、家庭の精霊棚に先亡様をお招きをするという行事であって、お盆でない時でも故人様の影響力や作用がないわけではありません。
救いや癒し、導き、成長にむかわせる慈悲・慈愛。
そのはたらきは「見よう」とすれば、あるべきところいたるところに見出すことができるのです。
たとえば、テレビをつければ過去・現在の映像がながれている。
この一つだけでも実は尊いことです。
全国に同時にその場に行かなくても、起こっていることが映せる。見える。
人類の叡智によって生み出された時代の最先端のものを授かり・めぐみ=供養・布施として授かっているでしょう。
それだって先人さまたちからのメッセージ、バトン、プレゼントなのだと受け取ることもできませんか?
“仏心・仏身”は法界につねに充満しているのです。
この画面、文字だって実にすばらしい仕組みでしょう。誰が文字を作ったのか。誰が、このネットの仕組みを作ってくださったのか。一切が命を共有する我々と同じ人間が作ってくれた素晴らしい働きです。
大切なのは向き合う気持ち、自己を見つめるこころなのです。

2021年8月15日 10:17
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おきもち

ご先祖様と仏様のご在所

ここもんさま

亡くなられたご先祖様方は、それぞれの業縁に従っての生まれ先にいらっしゃることでしょう。生前、過去世における仏縁、心に培われた善き功徳や智慧、業のありよう次第にもなって参ります。

お盆には、ご先祖様方は、この娑婆の縁のあったところに帰ってくるとして、丁重にお迎えし、お膳のお供え、提灯のお供え、また供養等をして、そして、お送りするということを風習的に行いますが、あくまでもこちらに残されてある側における「そうあってほしい」という希望的なところが大であり、実際に帰って来られるかどうかと申しましたら、その確率はかなり低いであろうかと存じます。全くありえないということではありませんが・・

いずれにしても、お盆という期間は、お休み、帰省等にて、亡くなられた方のことを偲び、弔うということで、追善供養を行うに適した期間であるかとは存じます。

追善供養のことにつきましては、下記拙法話を参考下さい。

法話「追善供養」


次に、本当に悟りを開かれた仏、如来に関しましては、娑婆世界には、現在、お釈迦様がご入滅なさられて以来、仏、如来は不在となっておりますが、お釈迦様の法身によるお加持のお力はまだ残っている状態でございます。(私たちが実際に相見えられる、教えを直接頂けるお姿である応身や報身は見当たらないということでもあります。次に、仏の応身や報身がこの娑婆世界に現れるのは、約56億7千万年後に弥勒菩薩が下生されてからとなります。また、娑婆以外の他の浄土では、如来が応身や報身にて在世されているところもたくさんございます。)

「仏身は法界に充満し、普く一切群生の前に現ず。縁に従い、感に赴いて周ねからずということなし、而も常に、此の菩提の座に処したもう。」と丹下さんが引用されておられます中での「仏身」というのは、今の娑婆世界では、お釈迦様の法身におけるそのお加持のお力のことであると言えるでしょう。

また、「仏身」=「真理のお身体のこと」=「真理そのもののありようのこと」とすれば、一切「空性」という全ての真理そのこととして理解できるものにもなります。

川口英俊 合掌

2021年8月17日 12:57
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有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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「仏像・仏様・阿弥陀・観音」問答一覧

神様も仏様も、必ずしも信じられない

以前「何を信じて生きていけばいいかわからない」ということで投稿させていただき、ご回答もいただいたのですが、やや気になる点があり追加で質問させていただきたく。 自分としては誠実にあろうと生きたつもりでした。 でも、家族間でも、仕事でも、あったことをなかったことにされてみたり、なかったことをあったかのようにされてみたりで責められ、うつ病にもなり、とうとうここ1年半くらいは引きこもりや寝たきりに近い状態になってしまいました。 物の善悪も、何を信じて生きていけばいいかもわからなくなりました。 それでも回答をいただき、自分を大切にして、やはり今までの自分を信じて誠実に生きていく方が良い方向へ向かえるだろうと思えてきました。 そうする中で、もう一回本気で取り組める仕事にも出会いたいし、楽しい趣味も見つけたいし、心穏やかに落ち着いて生きていきたいとも考えています。 ただ、「神様や仏様は見ている」という言葉が回答の中にあり、少し暗い気持ちも残ってしまいました。 神様や仏様がいるのなら、どうしてここまで至る前・・・あの時に助けてくださらなかったのか。あの時、あのひどい扱いをしてきた者たちに報いを与えて下さらなかったのか。もし私が間違っているというのなら、こうなるまでにそれを教えて下さらなかったのか。何ならば、今の私を救ってくださらないのか。何が足りないというのか。 そんな汚い感情を払拭することが出来ません。「神様仏様はそういう都合のいいものではない」、もしかすると「私が以前の何かの報いを受けているだけだ」、と言われてしまうかもしれませんが・・・。 そう考えると、 『本当に今まで通り真面目に誠実に生きる方向で大丈夫なのか?』 『今までの道徳をすべて捨て去るようなこともしなくていいのか?』 『それで「誰かに都合のいい人間」でなく、自分が良い人間となり、よき人生を送れるのか?』 汚い感情と一緒に、まだそういう迷いも多少残っています。 「よき人生を送れるかはわからないけど、無理に全部変えないで、今までのものをアップデートする形で十分じゃないかな」とは思うのですが。 神様や仏様に求めすぎるような汚い思いや、そもそも神様や仏様といった存在にどう向かいあうべきなのか。そして落ち着いた心で生きるためのアドバイスをいただけますと幸いです。

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薬師観音様にご挨拶した時のことについて

#お参り#仏像・仏様・阿弥陀・観音 初めて相談させて頂きます。 ありがとうございます。 観音様にご挨拶した時の不思議な体験について、何か気づきを得させて頂ければと思い投稿させていただきます。 よろしくお願いいたします。 先日、お客さんから、川見四季桜が綺麗だったよ、栗きんとんが美味しいよと教えて頂き、天気が良い日に母と出かけました。 可愛らしい桜と、綺麗に赤く染った紅葉と、綺麗な和紙の作品と色々見て、有難く大満足な1日でした。 桜と紅葉を楽しんでいたところ、川見薬師寺に続く階段を見かけて、ご挨拶しようと、急な階段でしたので慎重に登って行きました。 やっとの事で登りきると、正面少し奥に、薬師観音像が見えました。 その時、観音様は私から見て右真横を向いていましたが、一瞬で正面を向かれ、目が合いました。 明らかに目の前で起きた事への理解が追いつかず、何か見てはいけないものを見てしまったのではないかと暫く見つめ合ったまま固まってしまいました。 母に促され、観音様の目の前まで来て、先程のことは一旦離れて、感謝とご挨拶をしました。 先程感じた強い違和感は無いものの、やはり目が合い、微笑んでいるように見えました。 ふと、右真横の目線の先が気になり、確認しに行くと、お寺で飼われている、老犬がいました。 わんちゃんにも挨拶したあと、少し下った先にあるお清めの水が湧き出ている場所に行き、そちらの観音様にご挨拶した際も、やはり目が合い微笑んでいる感じがあり、また呼吸して生きている様に見えました。 その日は1日とても楽しい体験をさせて頂き、ありがとうの気持ちでいっぱいでした。 加えて、人生で初めての体験、感覚ばかりでしたので、不思議に思っております。 拙い文で申し訳ありません。 改めて、よろしくお願いいたします。

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観音様へのお願い事について

とある観音様が祀られているお寺にお参りに行った際の事ですが。 初めて訪れたお寺でした。 ウロウロしていると案内して下さる方が出てきて、一通り大まかに説明して下さって、そしてお参りする際に、 「~いくらでもお願い事して大丈夫ですよ~」 と、確か言った気がしました。 一瞬「聞き間違えたかな?…」と思ったのですが…。 観音様のご利益を検索すると、 「…あらゆる願い事を叶える、救いの手を差し伸べる、云々…」らしく載っているのを散見できます。 ですが、参拝者がお参りする際、お賽銭(お布施)って、5円、10円、100円…とか小銭をする場合が凡そ大抵だと思います。 知識がある人なら封筒包で千円単位を包む事はあると思いますが、少数かと思います。 ※ちなみに、神社へのお参りの場合、願い事の規模の大小に依ってそれなりの金額をお賽銭すべきであろぅ、といぅ意見/考え方を聞いた事はあります。 いくらでもお願い事して大丈夫…とは言え、小銭程度で5個も10個ものお願い事するって対価に合わないんじゃ…と想像したのですが、 「Q:そもそも観音様ってお賽銭の額が小銭だから云々…に関わらず、人々の願い事を個数に拘らずに聞いてくださる仏様なのだろうか?という素朴な疑問です」 まぁ、他の仏様、如来/菩薩/明王様…の場合はどうなのか、も詳しく存じ上げていませんが。

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