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高校生時代に受けた地獄と現在の人生の絶望

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有り難し有り難し 8

僕は高校生時代に受けた地獄の指導によって、社会人としての生き方が迷走しています。以下のことは本当にあったことです。

朝礼にて、「父母のおかげで教育が受けられることは当たり前じゃない」などの誓いの言葉を言わされる。毎日言わされるので、教育というものにうんざりしてしまう。→結局、高校生としての教育を受けなくてもいいような仕事に就いたから意味がなかった。
集会では毎週のように教師が説教。しかも怒鳴ることもある。誰もなだめてくれないので、教師の言うことが絶対だと思い込む。→今の仕事場の人は怒鳴ることが一切ないので、未だに困惑する。
スピード重視で結果を残せ、なぜならゆっくりやって結果が出るのは誰でも出来るからと言われる。→今の仕事場はゆっくりやってね、なぜなら、速くやって失敗したらダメと言われる。話が違う。
挨拶、礼儀、言葉遣いの3つさえ厳しく指導されてその3つに自信があれば内定がもらえると言われたので、就職活動で実践しても内定がもらえなかった。話が違う。→結局、就職活動しなくても入れる安月給のB型就労勤務に。
自分自身を無理させてまで団体のために迷惑をかけてはいけないと指導された。→今の仕事場では自分自身を無理させては仕事にならないから団体のことは考えずに自分を大切にしてと言われる。
言うことを聞かなければ、怒鳴ったりビンタをするような教師がいて、ビンタをするところを目の当たりにした。→もちろん、違法行為。こんなことはカッとなってもしてはいけない。自分が人に注意するときにそういったことをやりそう。そうなる自分が怖い。
寄り道禁止の上に、生活指導自体が異様に厳しすぎて高校生としての楽しみや憧れを犠牲にしてまで生活指導を守った。→今では休日や仕事帰りに遊び歩く行為をしていて、生活指導の意味が全くなかった。青春を返せ。
まだまだ数えきれないほどの高校生時代に受けた地獄の例があります。
その教育のせいで自分自身の社会人としての生き方に迷走してしまって、絶望しています。

あんな高校生時代の指導、無視して不良になったり、放課後内緒でアルバイトしたり、遊び歩けばよかった。どちらかというと底辺高校だったから授業サボって遊べばよかった。
まあ、教師がそんなことに目をつむってほしかった。
そうすれば、充実したのに。
今は何もかもに絶望。楽して暮らしたい。ただそれだけだ。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

過去の自分とスパルタ教育を論破して「今」よりよく生きる

行き過ぎたスパルタ教育というものは相手の尊厳も人権も無視した非道な教育ですで。教育という言葉に騙されないように。
今も自分の学びや導きは継続中だと心得るべきでしょう。
今は誰もあなたを縛る人も強制する人もいないからこそ「確かな・まちがえのない・納得できる」ことを選択していくべきでしょう。
さっさと片付けていい加減な仕事をして失敗したことはありませんか?
それも学べば、丁寧で間違えのない仕事の方が全体の為になる。価値がわかれば仕事をスムーズに進めることもできる。それもあなたの学び。
世の中には幼少期の頃から親が信奉する謎の新興宗教に入信させられて大人になってからその矛盾に気が付き「目が覚めて」急成長する人も多いです。
過去の教えに矛盾を感じたのであれば、その当時のことは現在の学びとして活かしてよい方向へ心を軌道修正しましょう。
あれはおかしなことだったから憎い、許せない、と心を動かすより「学び」として自分をより高い方向へ導くのです。
お釈迦様や祖師たちとの対話・問答によって、自分がそれまで学んできた最高の学問の矛盾点や非合理性に気づいた人たちは、今まで自分が学んだものをすてて、過去の学びを愚かしいと怒りをぶつけるでもなく仏教に帰依しました。あなたも別に仏教に帰依しなさいということではなく、その過去の学びのおかしなところは今おかしいと気づいたのならそれを責めれば自己否定になり、誰かを恨む心理作用が生ずるから、そのように向かわせるべきではなく、そういうおかしなことを正す、無くす、より良い方向へ導く気持ちに転ずればよいのです。
そうして自分自身を正しく教育、教化、教導するのが仏教、仏「教」です。
仏さまや立派な人は体罰やでかい声、恫喝で人をののしって偏った思想を植え付けたりはしない。
見抜いて、見抜いて、みきわめる。
そもそも、アレはなんだったのか。
何をさせようと思って「あんな」だったのか。
普通に言うことを聴かせることもできるはずなのに「何故に」「あんな」方法で学ばなければならなかったのか。
いろんな理由付けができるでしょうが、簡単な話、軍隊や体育会系の教育の場では全体の統制・規律を厳しく整える必要があるために、個人の個性を認めず全体の中でのきっちりとした形やあり方を求められるからともいえましょう。
思い出も記憶も学びのタネにして現在の自分を高く成長させればよいのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

回答ありがとうございます。
その回答によって、少しですが生きるための方向性が分かってきました。
過去のことを論破して新しく生きようと思い、学ぶことにしました。
ありがとうございました。

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