故人に話しかけてしまう
7月に夫が急死し、49日の法要を済ませました。
浄土真宗では亡くなった人はすぐに成仏する、と聞きました。
お尋ねしたいのは、故人を思い出したり、あたかも、故人がそこにいるように話しかけたりするのは、故人にとって悪いことにならないか、ということです。
家の中のあちこち、外出先の車の中、夫といつも一緒にいたので、どうしても話しかけたりしています。
義実家の仏壇には週に一度、分骨していただいた手元供養の小さい骨壷には毎朝毎晩手を合わせ、話しかけたりしています。
仏壇やお墓以外で故人に話しかけたり、思い出したりすることで、故人が苦しんだりはしないですか?
くだらない質問になってしまいますが、ご回答何卒よろしくお願い致します。
小学3年の頃、母と母方の祖母が相次いで亡くなりました。23の時、父も亡くなりました。 26で結婚し、その後、父方の祖母、祖父と亡くなりました。 そして先日、夫が亡くなりました。
世間様、社会、他人への恐怖、希死念慮を抱えてます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
生前のご主人と「成仏」後のご主人
こんにちは。
まずは、お悔やみ申し上げます。
深いお悲しみの中にあることとお察しします。
「故人を思い出したり、あたかも、故人がそこにいるように話しかけたりするのは、故人にとって悪いことに」はなりません。あなたの心が赴くままに、今後とも同様になさってください。
人間とは不思議なもので、心は理屈では割り切れません。
命が終わったという事実を飲み込めず、まだそこに懐かしいあの人がいるような気がする、そういうものなのです。
お参り先で、こんな話を聞くことがあります。
3回忌が終わっても、あのドアを開けて息子がただいまと帰ってくるような気がする、と。そういった母親の気持ちがあるのだと気付かされます。
だから、肉親の情そのままにご主人に話しかけてあげてください。
いまでも、あなたのご主人なのですから。
その一方で、これは心が許す限りでいいですから、「浄土真宗では亡くなった人はすぐに成仏する」ということの意味を考えていっていただければ、と思います。
極楽浄土の主である阿弥陀如来様が、亡き故人をお連れくださった。
そして、そこで阿弥陀如来さまによって「成仏」、つまり仏の身とならせていただいた。「仏」に「成」るということは、阿弥陀様の極楽浄土への道のりが開かれていることを、阿弥陀様と共に現世に生きるものに勧める身と「成」ったという意味です。
ですから、生前のご主人であるとともに、極楽への道のりの教えを聞いてくれと勧めているのが故人の現在の姿であると思っていければ、教えの上でも、心の面でも亡き人を十全に捉えたということになる、のだと思います。
どうぞお大事になさってください。
また、年月がたった後に法話を聞いていただければ嬉しいです。
では。
本願寺法話配信サイト
https://broadcast.hongwanji.or.jp/
心の内なる作用・影響力・関わりを霊といいます
仏教では「一切唯心造」という教えがあります。
唯心論とは異なり、一切の事の現れはこの身心の内なる作用として表れていることを見抜きなさいということです。仏教では本来、霊や霊魂、精霊とは我々の内にある作用や働き、影響力のことです。
たとえば私が亡くなった祖母や祖父のことを思い出して、ご報告をしたり感謝の祈りをささげることは私の内なる作用、霊です。霊魂とは一般的には「外の事・外に存在する作用」という風に考えられていますが、故人を思う、思い起こす、影響力があるのは「どこ」でしょうか。
「若人欲了知 三世一切仏 応観法界性 一切唯心造」
人、もし(過去・現在・未来の)三世、一切の仏(わが身のあらわれの真実)を了知せんと欲さば、応に自己が触れるところの世界の一切(法界)の本来の様相、本来性をよく観ずべし、それは一切唯心造なるものである、と。『甘露門』
大好きだったご主人との関わりは生きておられた時、この身心に感じられたことは内なる「あらわれ・映しだされ」としてのご主人。亡くなられて今思い起こされることも内なる作用として表れている「内なる御霊・精霊」という作用、働き、思い出、記憶、現在の新たなる関わりなのです。言葉や宗派や解釈が異なるから人間の上にも違いが表れるのかと言えばそうではありません。世界中の人に共通して亡き人たちを思う内なる作用、内なる霊という「身心のことのあらわれ」というものがあるのです。
よって、別に話しかけたから故人様がどうなるとかいうことがあるわけではないでしょう。こんなことをしたら、いけないのではないかと思うのも我々の心の「内なる作用」ではないでしょうか。
だからこそ、人間は「尊厳・敬意・敬恭(くぎょう)」という精神を大切にするのべきなのです。それが「おまつり(祀)」するという精神です。亡き故人様を死後も私たちを導いて、守ってくださる精霊、ほとけさまとしてお祀りして、これからも私たちをこの上ない安らかな心、聡明な心、すなわち涅槃、悟りの心へと導いてくださるようにとの祈りを込めて、私たちが菩提心(仏教の宗教精神…悟りや涅槃をもとめ、一切の人々を救おうという志)をおこして、供養するということが大切な精神です。亡くなられた故人も成仏し、生きている私たちも生きながらに悩みや苦しみを離れた安心、安らぎの心を❝共に❞めざし、養い合う心こそ供養ともいえましょう。
質問者からのお礼
ご回答いただきましてありがとうございました。
思い出したりそれを心苦しく思うのも、心の有り様がそうある、と思い、日々の供養をしていこうと思います。