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故人に話しかけてしまう

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7月に夫が急死し、49日の法要を済ませました。
浄土真宗では亡くなった人はすぐに成仏する、と聞きました。

お尋ねしたいのは、故人を思い出したり、あたかも、故人がそこにいるように話しかけたりするのは、故人にとって悪いことにならないか、ということです。

家の中のあちこち、外出先の車の中、夫といつも一緒にいたので、どうしても話しかけたりしています。
義実家の仏壇には週に一度、分骨していただいた手元供養の小さい骨壷には毎朝毎晩手を合わせ、話しかけたりしています。

仏壇やお墓以外で故人に話しかけたり、思い出したりすることで、故人が苦しんだりはしないですか?

くだらない質問になってしまいますが、ご回答何卒よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

生前のご主人と「成仏」後のご主人

こんにちは。

まずは、お悔やみ申し上げます。
深いお悲しみの中にあることとお察しします。

「故人を思い出したり、あたかも、故人がそこにいるように話しかけたりするのは、故人にとって悪いことに」はなりません。あなたの心が赴くままに、今後とも同様になさってください。

人間とは不思議なもので、心は理屈では割り切れません。
命が終わったという事実を飲み込めず、まだそこに懐かしいあの人がいるような気がする、そういうものなのです。

お参り先で、こんな話を聞くことがあります。
3回忌が終わっても、あのドアを開けて息子がただいまと帰ってくるような気がする、と。そういった母親の気持ちがあるのだと気付かされます。

だから、肉親の情そのままにご主人に話しかけてあげてください。
いまでも、あなたのご主人なのですから。

その一方で、これは心が許す限りでいいですから、「浄土真宗では亡くなった人はすぐに成仏する」ということの意味を考えていっていただければ、と思います。

極楽浄土の主である阿弥陀如来様が、亡き故人をお連れくださった。
そして、そこで阿弥陀如来さまによって「成仏」、つまり仏の身とならせていただいた。「仏」に「成」るということは、阿弥陀様の極楽浄土への道のりが開かれていることを、阿弥陀様と共に現世に生きるものに勧める身と「成」ったという意味です。

ですから、生前のご主人であるとともに、極楽への道のりの教えを聞いてくれと勧めているのが故人の現在の姿であると思っていければ、教えの上でも、心の面でも亡き人を十全に捉えたということになる、のだと思います。

どうぞお大事になさってください。
また、年月がたった後に法話を聞いていただければ嬉しいです。
では。

本願寺法話配信サイト
https://broadcast.hongwanji.or.jp/

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浄土真宗本願寺派報恩寺住職(兵庫県三木市) 本願寺派布教使 元本願寺布教研究専従職員 元龍谷大学講師 元篤志面接委員(法務省管轄) 真宗学修士、心理学学士 Fmみっきい(地元ラジオ局)出演中 趣味:サックス 2019年末頃から回答しています
応談できる時間帯は、その日によって違いますのでお確かめ下さい。 月曜日〜金曜日(祝日除く)13時〜21時 土曜、日曜、祝日 18時〜21時 お盆(8月1日〜15日)、お彼岸は対応できません。

心の内なる作用・影響力・関わりを霊といいます

仏教では「一切唯心造」という教えがあります。
唯心論とは異なり、一切の事の現れはこの身心の内なる作用として表れていることを見抜きなさいということです。仏教では本来、霊や霊魂、精霊とは我々の内にある作用や働き、影響力のことです。
たとえば私が亡くなった祖母や祖父のことを思い出して、ご報告をしたり感謝の祈りをささげることは私の内なる作用、霊です。霊魂とは一般的には「外の事・外に存在する作用」という風に考えられていますが、故人を思う、思い起こす、影響力があるのは「どこ」でしょうか。

「若人欲了知 三世一切仏 応観法界性 一切唯心造」
人、もし(過去・現在・未来の)三世、一切の仏(わが身のあらわれの真実)を了知せんと欲さば、応に自己が触れるところの世界の一切(法界)の本来の様相、本来性をよく観ずべし、それは一切唯心造なるものである、と。『甘露門』

大好きだったご主人との関わりは生きておられた時、この身心に感じられたことは内なる「あらわれ・映しだされ」としてのご主人。亡くなられて今思い起こされることも内なる作用として表れている「内なる御霊・精霊」という作用、働き、思い出、記憶、現在の新たなる関わりなのです。言葉や宗派や解釈が異なるから人間の上にも違いが表れるのかと言えばそうではありません。世界中の人に共通して亡き人たちを思う内なる作用、内なる霊という「身心のことのあらわれ」というものがあるのです。
よって、別に話しかけたから故人様がどうなるとかいうことがあるわけではないでしょう。こんなことをしたら、いけないのではないかと思うのも我々の心の「内なる作用」ではないでしょうか。
だからこそ、人間は「尊厳・敬意・敬恭(くぎょう)」という精神を大切にするのべきなのです。それが「おまつり(祀)」するという精神です。亡き故人様を死後も私たちを導いて、守ってくださる精霊、ほとけさまとしてお祀りして、これからも私たちをこの上ない安らかな心、聡明な心、すなわち涅槃、悟りの心へと導いてくださるようにとの祈りを込めて、私たちが菩提心(仏教の宗教精神…悟りや涅槃をもとめ、一切の人々を救おうという志)をおこして、供養するということが大切な精神です。亡くなられた故人も成仏し、生きている私たちも生きながらに悩みや苦しみを離れた安心、安らぎの心を❝共に❞めざし、養い合う心こそ供養ともいえましょう。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答いただきましてありがとうございました。
思い出したりそれを心苦しく思うのも、心の有り様がそうある、と思い、日々の供養をしていこうと思います。

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