人のためと心から考えるには?
こんにちは。
質問です。
心から人のことを一番に考えられるようになるにはどうしたらよいでしょうか?
私は最近、医療関係に転職したのですが
そこでの心持ちに悩んでいます。
転職先は自分のやりたいことのはずでした。
医療という、人の役に立つ仕事がしたいと思っていました。
思っていたのですが、実際人のため、というより自分のため、と動いている自分がいてショックを受けています。
自分がめんどくさいから○○しない、わからないから○○しない、よくわからないけど、やってみればいいんじゃない?(そこで患者さんがどうなるかということまで頭がいってない)
などなど医療に関わる人間として最低だと思いました。
私は大学時代から福祉を学んだり、前職でも医療になるべく関わるようにしてました。
人を救いたいと考えているはずなのに、周りからもっと患者のことを考えて、と注意されることがあり、とてもショックでした。
自分の保身にばかり目がいってしまい、本当に人のことを考えられていません。
しかも最近は働いている分野の勉強について思うように結果がでなく、毎晩理想との差に涙が出てきます。
周りからのサポートもあるのですが、どうしても期待に応えられません。
朝早くから夜遅くまで勉強勉強で、なんでこんなことしているんだろう、いつになったらできるのだろう、と考える毎日です。
勉強しても毎日注意され、心を保つのに必死です。
心を保つのに必死で余裕がなくなり、周りを考えられてないとも思います。
このような状況の中でも、人のため、と考えられ行動するにはどうしたらよいでしょうか?
長くなりましたがご回答よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
かゆい所に手を届かせること
拝読させていただきました。
このご質問には様々な角度から複数の答えがあると考えられます。
患者さまもご家族も含め、求めることはその方々に応じた対応の仕方(処方)により、変わると思います。
一つ例をあげてみます。
Pecoraさんが大切な人からプレゼントをもらいます。そのとき、Pecoraさんの感情は大切な人のどこに思いやりを感じるでしょうか?
1、プレゼントを贈ってくれた思い。
2、プレゼントを贈ろうとした思い。
3、記念日などを覚えていたくれた思い。
1、2、3、のどれも正解ではなく、ここでの正解とは「誰々への思いやり」ということです。
・プレゼントを贈るまでに、Pecoraさんが何だったら喜んでくれるだろう。Pecoraさんにプレゼントを購入するのに時間を費やし、購入先まで足を伸ばしてくれたり、包装紙を選んでくれたりしてくれた思いにPecoraさんは喜びを感じることと思います。
よくドラマなどでもある光景ですが、「高価なものより、安価でいい。思いやりのこもった物が何よりも嬉しい。」など。
人は結局の行き着く所は、思いやりのこもったところに思いを寄せるものです。相手のことを考えて言動する思い。いわゆる慈悲に値します。
記念日に約束事のように、ただプレゼントを送ってもらうだけでは何か物足りなくなっていくようなものであり、医療でも完治は誰しも望みますが、完治よりも評判を選択します。この選択はいい病院であり、技術より思いやりあるところで診てもらいたいということになります。
現実「ため」とは、とても難しいものです。漢字で書くと「為」であり、この為に人が加わると「人+為=偽」となります。
偽善者、偽りなど、奥深いものです。相手を選んでいては中々できないことでありますよね。
簡潔に記述しましたが、相手のためとは「思いやり」であり、相手の身になって考えてあげることになります。その相手の苦しみなどは同感しようもないこともあります。でも、同じ痛みなどは分からなくとも、同じ気持ちにはなれるものです。ただ多くを接していく上ではすべての人々に思いを馳せることも、受け側に疲労心労が生じます。慣れていくという経験を積み重ねていくことで、大事なときに加減できる力を養い、素晴らしい医療関係者になってくださいませ。応援してます。
合掌
慈悲心は本当の無我が「どういうことか」を明られば自然に沸く✨
私個人の参禅修行、求道を通して感じ得たことです。
世界の主義思想や哲学を学んだものの、いわゆるスマートな利便性を追求したり、故人の自己実現欲求だけの追求、共産主義、平等主義では誰も現実に幸せになっていないのではないかと感じてきました。それは外国を見ても明らかでしょう。
やさしさが大事だ、わかち合うことが大事だという割に制度やルールを悪用して自分だけが儲けようとする人も現実には多いものです。
そんなエゴエゴ、自分ラブ、セルフラブ、自己愛、自己中な人間の多い中、他人の幸せのために尽くすことはかえって悪用されることも多い世の中です。
ですが、それでもケチな心や自分だけ主義が一人でも多く増えれば、交通状況一つでも譲り合いのない、割込み、競い合い、蹴落とし合いの社会となるわけです。
仏教では智慧を慈悲を説きます。
智慧は何となくわかったものの、どうしても自分にはやさしさ、慈悲心が欠ける。
参禅中、帰り道に老師にお尋ねをしました。
「坐禅や老師のお話を聞くことを通して智慧ということはよくわかりましたが、慈悲心がどうしても沸き起こりません。どのようにすればよろしいのでしょう?」
老師が言われるには、
「坐禅を通していわゆる、無我、自我のないところが明らかになれば、こちらに【わたし(自分意識)】が立たなくなるから、自分を先立てることがない。この自己の身心が自分であることには違いないのだけれど、この身に【わたし】ということが立たない(先立つことがない)から、相手が困っていれば、それも自分の事として、自分の事のように助けてあげられるようになる。それを慈悲というのでしょう。」
「では、無理にボランティアや慈善活動、犠牲的精神をすることが慈悲ということではないのですね。」
「そういうことです。」
人間は、社会の規範、ルールや人道主義のありようとして「ひとにやさしく」ということを一応は知っている。ですが、無理のあるやさしさや、作り事として他人のために尽くすということはどこかしら無理がたたる。
だからこそ、仏教はこの自分自身の本来のありようが元々どうなっているのかを見極めろというのです。それを自己に参ずる、自己の本来性質を学ぶ仏道、参禅修行というのです。
ぜひ、あなたの身心の手つかずの所、本当に万事を休息し、休息しつくしたところがどうなっているかを見極めてみてください。
質問者からのお礼
丹下 覚元様
ご回答ありがとうございます。
仏教というところに不勉強でしたが
回答読ませていただき自分なりに解釈させていただきました。
自分を知る、というところに相手への接し方への道がある、と読ませていただきました。
小手先の気持ちで相手への思いやりを無理に見出すのではなく、自分を見つめ直すこと、休息することをまずは考えることができました。
もう少し落ち着いてからゆっくり考えてみたいと思います。
ありがとうございました。
法源様
ご回答ありがとうございます。
自分が患者だったら、ときのことをもっと鮮明に想像してみようかと思います。
いままで具体的に考えていられなかったことが、結果思いやりを欠く原因になっていたのだろうと思います。
そして相手のため、自分のことのように相手について考える思いやりを持つことをまずは日常から考えてみたいと思います。
そして「慣れ」れば多少は楽になるということを伺い、安心しました。
まずは明日から一日ずつ試行錯誤してみたいと思います。
ありがとうございました。