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我慢する方法を教えてください

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こんにちは。以前相談させていただきました。
現在は当時の彼と入籍し夫婦になりました。
結婚したからと言って夫が良い方向に変わってくれるなんて期待しない!という決意でした。
いざ二人の生活が始まると、夫はいきなり友人を家に連れてきたり、このご時世平気で飲みに行ったりカラオケに行ったり…。妊婦の私の前でも喫煙するので、その時は私が席を外すようにしています。いきなり外泊も珍しくありません。家事も全くしてくれません。
ただ、全部それを納得した上で結婚したつもりでした。(夫としたら結婚してやったぐらいでしょう)

わかっていたことだから文句を言っちゃだめだ、私は覚悟してたんだ、強くならなきゃと自分に言い聞かせてはいるのですが、たまにどうしても悲しくなって涙が止まらなくなってしまいます。
どうすれば、夫の態度を上手く流せるようになるでしょうか?今さら夫に変わって欲しいとは思わず、自分が強くなる方法、心の持ち方をアドバイスいただけたらと思います。秋には出産予定です。強くなりたいです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自身の内なるスクリーンの映像からのソーシャルディスタンス

人間の身心とは映画館のスクリーンのようなもの。
外の出来事と、内なる怒りや妄想、不安や嫌な気持ちが映しだされるスクリーンです。
いやなことはいやなこと。
好ましくないことは好ましくないこと。
たとえば妊婦さんであるあなたの前でタバコなど今の時代では犯罪レベルの感性です。
ですが、それでもその身心への物事の映しだされに対して良い悪いや、好き嫌いというジャッジが行われる前の「ありのままのことのうつしだされ」という姿がある。
それをみきわめることが仏道修行の要点です。
ある禅師様は階段から転ばれた時に、動ずることも無く立ち上がってたった一言だけこういわれたそうです。「ごろんごろん」と。
あとから我々は「何か言う」。
あとから我々は「何か評価をする」でしょう。
あなたの旦那への評価や思いも、今思えば失敗だったとか、別の人にしておけばよかったとか、これから先こんな人で大丈夫だろうか、といろいろな思いを起こされることでしょう。
ですが、まずそこに「わたし」を介入させないままに距離を保って見つめてみる。
たしかに、このコロナ下で家族を危険なリスクにさらすようなことは咎められるべきことですが、学校で悪さをした生徒を叱る際にも上手な諭し方があるように、ただ相手を憎む、嫌う意識を起こすだけでは感情的な気持ちが生じ対立するばかりです。
「要はどうなればよいのか」
「要はどうなればこと足りるのか」
そこに感情移入をすることなしに、事の運びだけスムーズになるように働きかけることが大事です。
旦那も旦那でこのコロナ下で働きたくもない、人とも会いたくもない中で一応収入を保ってくれている。無断外泊はお互い疑わしいことがないようにきちんと証拠をとってもらうようにすることです。やましいことをしている気持ちがなければパートナーであるあなたに対しては何も怒ることなしにむしろ愛する伴侶へ心配をかけたくないという気持ちですんなり引き受けてくれるはずです
そしてあなたは論理的に彼をきちんと論破する力を持つことです。
前回のお悩み相談を拝見させていただきましたが、ご主人の感性は女性に対する尊厳・尊重する気持ちがあまりにも欠け、身勝手な所があります。真実の人間性は人を傷つけません。人としてまっとうな方向にお互いが導きあえるように論理的な思考を持ってどちらも嫌なことがないよう建設的な対話ができるようにいたしましょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。
私達夫婦には“建設的な対話”がなかなかできていないな、と改めて思いました。あまり感情的にならずに、なんというか冷静に話ができるように努めたいと思います。

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