hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

辛すぎる現実

回答数回答 1
有り難し有り難し 9

毎回、お答えしていただいてありがとうございます。
今回も、お答えいただけると嬉しいです。

今回は、正直自分でも気分はいいものではないですが・・、
お答えいただけると嬉しいです。

悪いことをしたら、地獄へ、いいことをしたら天国へ行くという認識が
世の中にはありますが、実際は良い事しようと悪いことをしようと、

行く場所は天国、極楽浄土とでもいいますが、実際そこに行けるわけではなく

みんな地獄へ行くんですね。 

仏教において~(ネットの記事等なので見た感じです)なんて言葉も調べたら出てきました。

生まれながらに、私たちは色んな罪を犯しています。
だから、良いことをたくさんしても、まるで意味がないように感じます。

とても気分は悪いです。抱えて生きていかなきゃいけない訳ですから・・。
辛いです。救いようがないです。

とても不安しかありません。どう生きていけばいいんですか。

教えてほしいです。お坊さんの皆さまよろしくお願いします。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

どこの誰がいつ地獄を作るのか☛そのような捉え方をすることで

生まれたばかりのひよこオスは役に立たんということで圧死させられる。
メスは卵を産むからということで生かされる。
善か悪か。答えてみましょう。
石川五右衛門の盗みは善か悪か。悪徳商人の金を庶民に返して貧しい人を救ってやったら悪事か善か。答えてみてください。
ものを食べれば殺生か。だったら、食べなければあなたもあなたを殺すことになる。ことばや意味の一面的なトラップに引っかかっているということを知るべきでしょう。
大量に生んで抱えきれなくなってニワトリが世に溢れれば善か悪か。
人間の世界には人間が人間のルールで作る生き地獄、地獄絵図というものがある。
また一方で歴史の中で学んだ最善の方法で全体の安全を保っているということもある。
人を苦しみに追いやる人間性にとどまっている者は真に人を導けない。
説法と言えど真実の道理を会得していない者の説法は、かえって人を迷いや怒り、暗いこと、悲しみにしか追いやることができない。
たとえ、その人がお立場が立派であっても、その言葉をそのまま鵜呑みにするようではいけない。人の言葉の受け止め方によってあなたが迷いの地獄に突き落とされてしまうということがある。そういう人間たちの戯言には耳を貸すまでもないと知ることです。
言葉には主旨がある。断片的に受け止めてはいけない。
こちらに仏の心があればどのような悪言も地獄の世も善導する心が生ずる。六地蔵のように地獄界にも修羅界にも足を運んで人を仏の悟りに導く立派な精神性を持つ。いまだ熟せぬ未熟者は自分も救われんものだから人も巻き添えにして救いようのないことを言って大きな顔をする。実に救いようのない世界です。
つまり、そういうレベルの話はそういうレベルの話にすぎん、ということ。
パン一つにしても高級パンもあれば、食べたら内臓を痛める農薬・添加物まみれのパンの形をした毒もある。仏教者だからと言っても衣だけ名前だけ、肩書だけというものもあるのです。まずは、あなたがそういうネット説や魑魅魍魎に騙されんようになることから。
あなたはまず自らが祖師たちのようにこの世の本当の地獄・極楽の真意を明らめようとする志、菩提心をもつこと。それなしに他人の言うことを鵜呑みにして信じ込まされてどうするのか。それこそ人の言葉に振り回されて地獄に蹴落とされている姿でしょう。まずはそういう情報に振り回されやい自分を救うことからです。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

コメントありがとうございました。
石川五右衛門さんに関してですが・・、いい事をしてるとも思います。悪い人からお金を取り返したという意味では・・。
なんでもかんでも鵜呑みにするのはよくないですね。ありがとうございました

煩悩スッキリコラムまとめ