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メンタルを強くし、前向きに生きたいです。

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普段から他人と比較して劣っているところを自己嫌悪し、また過去の後悔を引きずってしまう性格です。
なるべく他人の羨ましい部分を見ないようにとSNSから遠ざかっていますが、最近では大切な家族である妹に対しても嫉妬してしまいます。
自分は結婚もして家を持ち息子も生まれ…側から見ればきっと私も幸せな生活を送れているはずなのに、結婚式の後悔、家の間取りや壁紙の後悔…しかしそれらについては子供ができたことによって些細でどうでも良くなるはずでした。
実際妊娠中は経過も順調でお腹の子が可愛くて仕方なく幸せでした。

しかし、出産した第一子の息子は片耳が耳介形成不全と診断され、また難聴も患っているようです。
出生体重も生産期に生まれたはずなのに小さく低出生体重児でした。
そして出産後から自分のメンタルの維持が難しくなってしまいました。
慣れない育児と睡眠不足などもあるかと思いますが、やはり音に反応が見られないところや見た目で片耳だけがちゃんとできていないところ、ストレスが体質か母乳が出ない自分の不甲斐なさ、他の赤ちゃんをみてはそのお母さんを見ては羨ましくて、どうして私だけと思うようになってしまっています。最初に申し上げた通りこれから家を建て、子供を産むであろう妹にさえ、きっと妹は健常児を産むだろうと嫉妬しています。
過去に戻りたい全てやり直したい、またはこの子さえいなければ、そんなことを考えてしまう最低な私さえいなくなれば、もう死んでしまいたいと毎日思ってしまいます。

最近表情が出てきて可愛い息子、家族想いの夫、大切な両親や妹、大事なものがたくさんあるはずなのになぜこんな風にしか思えないのか。辛くてたまりません。

多少のネガティブな感情は受け入れられますがここまでくるともはや異常なのではとさえ思ってしまいました。

こんな私が前向きに明るく皆で生きていけるようになりますでしょうか?
長くなり恐縮ですがご助言いただけますと幸いです。
どうぞ宜しくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

エゴ濃度を泥水濃度から麦茶レベルにしようと志す

人と比べて劣っているとか、勝っている、優れているといっても他人との比較勝ち負けコンテストが定期的に開かれているわけでもありません。
今、庭の雀を見ながら回答させていただいておりますが、スズメたちは勝ち負けとかより食えるか、生きられるか。そこ。
人間は暇なのですよ。ヒマ。
生きるのに必死な時はそんなことをしている場合ではありません。
妹とあなたとはキャラも個性も好きな異性のタイプも髪の毛の数も住んでるところも見ているテレビも友達も異なりますから、関わりがある時までそっとしておいてあげてください。
お子様の問題も今その問題でお子さん自身が問題になっていない以上はあなたが過剰に心配しているあなたの問題だと気づいてください。
内も子供が発達障害で出産と同時に顔に傷をつけられましたが、みんなそれなりに幸不幸は持ち合わせているのですが、悪いところにばかり焦点を合わせているということで人の倍人生を暗い心で過ごしているのはもったいないと気づいてください。
どうして私だけと思うかもしれませんが、みんな、それなりに。ウイグル人はウイグル人に生まれただけでひどい目にあっています。
さて、悩みの原因はあなたの「事前設定マインド」です。
あらかじめ自分の中に最高のビジョンを持ちすぎている人はそれがために自爆・自縛します。
あなたと同じポジションであなたじゃない人であったならばあなたのポジションが最高過ぎて人に恵んであげられるぐらいの人もいるはずでしょう。
ところが、あなたは足りない足りない、不足不足、面白くない面白くない。
どんだけ自分ラブが過ぎているのでしょうか。そこをあらためるには自分のあらかじめの理想ビジョン、あらかじめのこうだったらいいなぁ設定を持たないことです。総じてマイルール。
今日の天気だって誰も自分で決められないものです。
ですが、自分の心のテンションやコンディションは変えられます。
それは自分ファーストマインドを捨てること。
この身心をアタシだアタシだとか思い過ぎないことが大事なのです。
もちろん、あなたの身心はあなたの生命体なのですが、そこに過剰に自分意識が広告が鬱陶しいアプリのようにしゃしゃり出ている状態です。それを慎むのに効果停なのは自分のエゴをおさめようと思うこと以外ありません。
仏道修行とはそのためにこそあります。坐禅や瞑想を通して我を慎むことで楽になるでしょう。

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有り難し
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今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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