病気持ちの引きこもりで人生辛いです
現在20代大学院生です。
私は鬱状態と不眠症で精神科に通院し始めて6年になります。
これらの持病のため一時期は大学進学を諦めていたのですが、家族や教師の説得もあり、実家を離れて進学し、以後どうにか通院と両立しながら大学院まで進みました。
しかしながら、1年ほど前から精神的に再び不調をきたすようになり、現在ほぼ引きこもり状態になってしまっています。
コロナ禍により感染予防や自粛に努めなければならない状況だけでなく、研究や就職活動が行き詰まってしまった自分の至らなさが重なったことが原因だと思います。
当初は感染対策や学業に取り組む意欲があり、自分にできるだけのことはしていました。しかしいくら努力しても改善できない状況が続き、無力感や嫌気が差すようになりました。
今では猫も杓子もマスクをして表情が読めない状態を気持ち悪いとすら思うようになり、外出自粛を建前にして家に引きこもっています。
こんな自分の感情を悲しく情けなく思い、また引きこもるしかできない自分が無力に思えます。
苦労して進学したのに何をやっているのか?
家族や知人に申し訳なく思わないのか?
自分の無能さや欠陥をコロナのせいにするのか?
そもそも今までの生き方が間違いだったのか?
こんな事を毎日自問自答し、自己嫌悪を感じています。
最近は食欲減退や倦怠感などをはっきり感じます。動く必要がない限りは寝転がっていないと心も体も辛いです。
視野が狭くなっている、後ろ向きに考えちゃダメだ、心のまず体を動かしてみてはどうか、それは頭では理解しているつもりですが、心と身体が追いつきません。
このまま思い悩んで生きるよりはいっそ死ぬほうが楽ではないかと思うことがあります。時々、遺書の内容や自殺の具体的な方法まで考えます。
自殺しなくても人間いつかは死にます。苦悩を抱えながら死ぬと浮かばれない気がして、その前に気持ちを全て吐き出したくなりました。
相談というより懺悔のような内容になり申し訳ございません。
私は今後どのような心持ちで生きるべきでしょうか?どのようにすれば苦しみを減らせるでしょうか?皆さまのご意見がいただければ幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ときにはいい意味で自身を裏切っていくことも必要。
拝読させていただきました。
仏教の四苦八苦の中にあります「五蘊盛苦」をご存知でしょうか。
簡易に説明いたしますと、「心と身体は思うように伴わない。」ということです。これも誰にしもが伴う苦しみの一つです。
頭脳と心とはまったく別物ですが、アメリカの医学・科学界では心は頭脳で生成されているという研究をすすめる機関もあります。いずれ心も頭脳から作り出されるともいっています。しかし、心というものは頭にはありません。
少し説明させていただきましたが、いくら頭で物事を理解していても心までは解決できないこともあるという苦です。そこに人間は行き詰まることが多いものです。
仏教の根底には「生きることは苦である(一切皆苦)」と説きます。苦しみは当たり前なんだと認識する信号を頭脳に送ることも必要ということなのです。
世の中の道理を見解していくと、勉強して健康でいて立派になっていく。そして年齢に伴い、その身の丈に合った中でもいい暮らしという人生にするべくと考えるのが現在の世の考え方です。
順風満帆という言葉はあるものの、誰もがそういく人は一人もおらず、悩み事は誰もが抱えているものなんだと見ていく心をもつことで少し楽にもなれるものです。
また、悩んでこそ人生であり、悩んでいない人は個性もなくつまらない者です。
仏教の中には多くの宗派がございます。私は真言宗ですが、開祖である弘法大師(空海)は、「顕教は塵を払い、真言は庫を開く」と言葉があります。いわゆる頭脳(勉強)すれば余計なものは払えるものの、真実は心を観る(自己観察)ことなのであります。
人は洗脳される生き物です。元気なときは洗脳されません。弱っているときは煩悩が悪い方へと執着を引き寄せていきます。
医者(医学)で鬱と判断されようとも、自身にもそうだと言い聞かせないことが必要であるのです。ここがタイトルに記しました「時にはいい意味で自身を裏切る」ということです。
人間は決めつける心を自身が作り出していることもあります。
・他人の評価を気にしないように心がける。
・何事も決めつけないように心がける。
・世間の流れ(基準)に入らなくてもいいのだと心がける。
まだやっても来ない未来から不安を前借りしなくてもいいのです。また、過去で起きた自己に起きた不安の原因を掘り起こさないようにしてください。
どんどんよくなります。これを機に