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アスペルガーと分かり、引きこもりたいです

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相談失礼いたします。

以前、人間関係で相談をさせて頂きました。答えてくださってありがとうございました。

結局人間関係はうまくいかず、訓練校で知り合った人とは疎遠になってしまいました。

訓練校を出たあと面接を何件も落ちながらも、なんとか正社員の採用を頂き1000分の1ミリ単位の部品を機械で作ったり、測定する仕事に就きましたが…
→人間関係につまづき、仕事内容が負担になり休職に至りました。

休職に至るとき、涙が止まらない、職場に近づくと吐き気や喉を締められる、即座に逃げ出したくなり足がすくむ等の感覚がありました。これらはまだ治っていません。

精神科では、うつ病と診断、通院するうちに発達障害(アスペルガー)の診断も受けました。

仕事が続かない(最長で派遣社員の事務3年)や、人間関係につまづく理由がわかったと同時に、今後も同じ内容で悩んでいくのだと思い、目の前が真っ暗になりました。

アスペルガーの本のコミュニケーション食い違いの事例を読むうちに、こんなに人の迷惑になってしまう、衝突してしまうのなら、できる働かず限り一人でひっそり過ごしたいと思うようになってきました。

家族からは会うたびに正社員になれ結婚しろと急かされるため上記のことは言えそうにありません。

あんまり働かず(職場で人と衝突→孤立→退職の流れは避けたいです)
人と深く関わらずひっそり暮らしていける手立てはあるのでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

病名や命名によってさらに心を病ませない方法

あなたは〇〇だ。あなたは〇〇だ。あなたは▽▽だ。
そういう言葉に縛られないようになりましょう。
今の時代、健康な人でも精神科をうければ健康な人でも鬱と診断され、アスペルガーと診断されてしまうこともあるそうです。要は、それらは上手に活用すること。
自分がそれは「おかしい?」と思えば信じなくても良いのです。人間の心の浮き沈みに固定的な名前など付けようがありません。医師から鬱だとか〇〇症と診断された海外の映画俳優が「人間の心の浮き沈みなんて誰にでもある。夕方になれば陰鬱な気持ちになるなんてことは自然の摂理だ。その浮き沈みの沈んだ時のワンシーンだけ切り取って❝お前は〇〇病だ❞なんておかしな話だゼ。」というようなことを言ってました。
あなたが次のお医者さんに行けばさらに別の病名を言われるかもしれません。さらに別の医者に行けば今度は〇〇症と言われるかもしれません。私ですらそういわれるかもしれません。ですが、そのように名付けられることであなたの本質の何かが変わることはありません。?そんなこと意識すらしてなかった時は❝HE❞でもなかったはずです。あの時、その医者から診断という判決・ネーミングを貰う3秒前、3時間前、3日前、3週間前、3年前は何でもなかったのではないでしょうか。そういう視点も持ってみてください。
あえて、そのように名付けられてその診断をされることで納得がいく人もいます。証明としてああ、やっぱりそうだったんだ、と合点がいくという人もおられるでしょう。そういう方であればそういう心に名前を付けるネーミングを前面に出せばいいだけです。あなたのような人の場合は、むしろ前述の通りに名前や言葉、病名に縛られないことをお勧めいたします。
後で思い出してみましょう。
「あの時〇〇だと名付けられたけど、そんなこととは関係なしに今私は普通に何の問題も無く生活できているじゃんか…。(/・ω・)/なのに、あの時から変な名前で呼ばれるようになってから私は急にネガティブになっていた?ひょっとして、これって…✨」
そう自分を見つめていくうちに、「何でもなくなれる」ようになれば、あなたは第三者から名づけられた言葉によって心が縛られなくなるようになります。
あらゆる病名はそれをそのように表現することができたとしても、それによってそれ以上に心を苦しめることは不要なのです。病名から自由になって下さい。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下様
ご回答ありがとうございます。
言われてみると、元々の性格でも悩んでいましたが、診断が下ることで一層悲観気味になっていたように思います。少しずつ考え方を変えてみます。

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