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死んだら

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死んだらどうなるのでしょうか。
地獄や天国に行くのでしょうか。
それとも、輪廻転生して、人間や、動物に生まれ変わるのでしょうか。
仏教的にはどうなんでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

まず、あなたの意志を聞かせて下さい

こんにちは。

前回の質問も拝見しました。
あなたは小学生だそうですね。
小学生で「五戒」を知っているなんてすごいなあ、と思いました。

前回のあなたの質問も、今回の問いと共通しているところが多いように見受けます。「仏教的」なところは前回の先生が既にお答えになられているので、私は要点のみを簡単に答えましょう。

「死んだらどうなるの」か、をいくら問うても答えは出ません。仏様の教えに生きたらどうなるかを問うべきです。

「地獄や天国に行く」のかがわからないのならば、仏様の教えに生きれば自ずと分かります。

このハスノハの回答は、全て宗派の違いはあっても仏様の教えに生きる人の回答です。

前回の先生のご回答に、仏教的な生き方についての具体的なお勧めが書かれていたはずです。そのお勧めに沿ってあなたは実際に行動しましたか。一般的な道徳、倫理ではなく、仏教的に(←重要)行動した上でこの質問をしているのですか。

あなたが仏教的な生き方を志して始めて、死後の行く末という非常に仏教的な回答が活きてきます。まず、あなたの意志を聞かせて下さい。

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おきもち

浄土真宗本願寺派報恩寺住職(兵庫県三木市) 本願寺派布教使 元本願寺布教研究専従職員 元龍谷大学講師 元篤志面接委員(法務省管轄) 真宗学修士、心理学学士 Fmみっきい(地元ラジオ局)出演中 趣味:サックス 2019年末頃から回答しています
応談できる時間帯は、その日によって違いますのでお確かめ下さい。 月曜日〜金曜日(祝日除く)13時〜21時 土曜、日曜、祝日 18時〜21時 お盆(8月1日〜15日)、お彼岸は対応できません。

死んだら「死んだ」という一大事がそこにあらわれる。

あなたが死ねばあなたが死んだということが起こる。
わたしが死ねば私が死んだということが確実に起こる。
死ななければ生きている。
生きていれば生きているという事実がある。
あなたの嫌いな人が死ねばその人が死んだということが起こる。
あなたの好きな人が死ねばその人が死んだということが起こる。
生きていれば「死んでない」「生」ということがあり続ける。
死ねば死んだということの後の世の事実がつづく。
死んだ後にどこかに行くというのは生きている人間が頭の中やっていることでしょう。
では「死んだらどうなる」のか。
その人が死んだということが絶対に起こる。
地獄や天国とは、あなたが生きているこの世界、その心の内容です。
輪廻とは、心が事実にきちんと一体化せずに浮足立って現実離れしていること。
死んだらこうなるんじゃないか、ああなるんじゃないかと想念をあれこれ立ち上げて迷うことを輪廻という。或いは苦しみから救われない生き方の無限ループも輪廻。今目の前に起こっている事実に対してそれ以外の思いをあれこれ重ね、付け足せば妄想が盛んになる。それも輪廻。
輪廻転生とは、あなたが因縁果という人生の実生活で受けた影響によって「どう転ぶか」だ。
妄想や根拠のないことを信じてああではないかこうではないかと自分を救うことすらできない妄想的な思いを最優先させて迷いが今後も続けばそれが迷いの継続の輪廻転生。この上ない明晰な頭脳を求めて真剣に仏道、悟りを求めれば、それが機縁となり、あなたの妄想も暗い考えも正覚という明晰な心へと輪廻転生する。自分のことだけ考えていればケチな生き方となり、誰も助けられない生き方(餓鬼畜生)へと輪廻転生する。菩提心をもって仏菩薩のように生きようと志せば縁ある人々、世界各地の苦界を救済する立派な人間に今すぐ輪廻転生する。
大事なのはあなたがそのあなた限定のあなたの生・命をいかに最高にするか。
生を軽んじる人間はその死も軽んじられる。
生に尊厳を持つものは死にも尊厳を持たせる生き方となる。
人命を軽視すれば隣国のように人間がゴミのように扱われる。
その事実を知りながらも他国のことじゃと人命軽視を是とすれば、今の日本のようなドライなご都合人間が増え、そういう人たちへの生は軽んじてよいという生き方に転生する。だからこそ、生は死ぬまで菩提心という最高の向上精神をもって生きることで命が輝く。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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