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何を頑張れば良いのでしょうか。

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初めまして、宜しくお願い致します。

私は自分に何も無い気がして不安になる時があります。

仕事も就職した時から家業を手伝っている為、一般の社会人に比べると甘い社会人生活を送っています。

自分の力で稼げていない気がして
去年くらいからフリーランスで別の仕事を兼業して始めたのですが、1年経ってもそれだけでは全く食べて行けない程の稼ぎで、この先も変われる気がしません、、

自分になにも無いと思い国家資格の勉強を初めて試験を受けたのですがそれも上手く行かず、全てが中途半端で嫌になってしまっています。

周りを見渡すと結婚や家庭を持つ人、楽しそうに仕事をしてる人、20代後半という事もあり安定して落ち着いた生活を手にしてる人が多く感じます。
好きな人も出来ず、仕事も中途半端で悩みを相談できる人もいない。自分になにもなく、頑張れていない気がします。

自分はこの先どうなりたくて、何が好きで、今何がしたいのか、分からなくなっています。考えると疲れてしまいます。
考え事をしたり、怠けるのが嫌だと思いここ数年勉強や仕事を頑張ってる気になっていましたが、冷静になって振り返ると何も上手く行ってない気がしています。頑張り方が間違っていたなと。

どう変わればいいのか、何を努力すれば良いのか教えてほしいです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

大富豪も自分のものなどは何もない

どんな大金持ちも人生の成功者ももともと自分のものなどありません。
すべてが頂いたこと、授かったことを用いているだけの姿でしょう。
あなたがこれを読めているのは誰のおかげか。
親や国語で日本語を学び、パソコン・スマホ・タブレットという便利な道具を通して文字や文意を読み取ることができる。それらを作ってくれた人も偉大ですが、もっと偉大なことは、その素晴らしい知的な財産をこうして分け合って、授かりを共有し合っている事実でしょう。我々は存在しているだけで、息をしているだけで「私には何もない」なんてことはぜったいにありません。それは自分にもあなたをこの世に生んでくださったご両親にも失礼だから二度とそんなことを口にしてはいけない。
眼を開けばものがうつる。こうして文字の授かり、仏教の教えが頂戴される。耳をすませば世界、天地自然、人類の縁と縁によるハーモニー交響曲が鳴り響く。
なにをせずとも呼吸は私たちの命の継続のために生まれてこの方一度も休まずに繰り返してくれている。生きるためには他の命を頂戴しなければならない。今や山や川に狩りに言って、手で火をつけずとも指先一つで先人たちが苦労して考案したおいしい調理法を経た食べ物を口にすることができる。今日はそんな気持ちを込めてこころのそこから「いただきます」を言うことです。命に対して、先人に対して、作ってくれた人に対して、届けてくれた人たち対して。そしてその授かり、恩恵に気づくのです。何もないなんてことがどこにありますか。
パラリンピック選手はまだそれでも恵まれている人たちなのかもしれません。競技にも出れないほどの重度の障害や病をお持ちの方々もいる中で、私たちは何もないなどとはとても口にできないはずです。そして、あなたはこれらの答え、回答、善導、仏菩薩の精神による導きを得て、そして、その迷いの心をどちらへ向けるべきか。今後も自分をいたずらに軽んじるような言葉を思ってしまうのか。くちにしてしまうのか。そんなヤサグレタさんに誰がしたの。
先立てている自分の高すぎる壁の設定そのものを一度、パーテーション、屏風、看板を倒すイメージで取り払ってみましょう。誰が「私はこうでなければならない」なんて息苦しいルールを自分に強いていたのか。みんなアタシだ。
すると背中のあたりから自分ルールのシバラレが解除される。あなたは自分ルールから救われて身軽になる。⤴

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下覚元様
この度はありがとうございます。
確かに思い返すと昔から自分ルールが多く、勝手に縛られていたのかもしれません。怠けちゃだめ、頑張らなきゃと言う気持ちが強すぎて、空回りをしてしまい、とても落ち込んでいました。まずはどうやったら壁を取り払えるのか自分なりに考えられたらなと思いました。ありがとうございます。

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