仏教で葬式をあげなければ成仏はできない?
こちらで質問していい内容ではないかもしれませんが、相談できる人が周囲におらずこちらに書かせて頂きました。
神道式で葬儀をあげた母の50日祭が迫っていまいす。
母が亡くなり、良く考えもせず母の親が神道式で葬儀をあげていたため同じように神道式で葬儀を行いました。
しかし生前の母のことを思い出すと、特に信仰していたわけではありませんが、仏教の教えやお寺の雰囲気に母は惹かれているところがありました。
このことは生前母と一番会話をしていた私だから知っていたことですが、母が亡くなった直後は呆然としてしまい葬儀のことを他の家族に任せっきりにしてしまいました。
今となっては母はお釈迦様のもとに行きたかったのではないかと思い、これで本当に良かったのかと思い悩んでいます。
また、神道では故人は家神になると言われていることを知り、それも母を家に縛り付けてしまうようで抵抗を感じています。
神道を悪く思っているわけでは決してありません。
ただ、母は本当は成仏したかったのではないかと思うと心が苦しいです。
母はお釈迦様のもとには行けないのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
宗教とは人としての根本。真理。
私は言葉が違うだけで、神道も、仏教も、キリスト教もみんな同じように感じています。
究極を求めれば悟り、成仏に繋がるのです。ですから、あなたが神道を信じて信仰していれば言葉はおかしいですが、家神として成仏することになるのです。
迷っているのは亡くなったお母様ではななくあなたですよ。あなたの思い一つで救われるのです。
信仰する気持ちがあるのかどうかです。お母様は大丈夫です。
一度、お家の宗教についてきちんと理解をする
こんにちは。
まずはお悔やみ申し上げます。
結論(浄土真宗から)からいいますと、「仏教で葬式をあげなければ成仏はできない」ということはありません。もう少し正確に言いますと、「葬式」がそもそも成仏の分かれ目ではありません。生前にどれだけお寺に足を運ばれて仏様(阿弥陀如来様)のお心に親しまれたか。これが「成仏」の分かれ目です。
信仰はそもそも、宗教、宗派において程度の多少こそあれ違いが必ずあります。
一口にくくれるほど単純ではありません。
浄土宗と、浄土真宗でも似ているようで違います。
ただ、あなたは「良く考えもせず母の親が神道式で葬儀をあげていたため同じように神道式で葬儀を行」ったと書いていますが、お母さんの立場からすればご自身の親に倣って同様の形で葬られることを望んでいたかもしれないと、私は想像します。
一般に、お寺のことと、神社神様のことは区別されずに語られる傾向にあります。
お母さんが生前に「仏教の教えやお寺の雰囲気に母は惹かれているところがあ」ったというのは、そういう文脈で理解することも可能なのではないでしょうか。特に特定のお寺に所属したり、法話会等に参加していたのではない限り、そのように見ることがむしろ自然なのでは、と感じます。
また、あなたは「神道では故人は家神になると言われていることを知り、それも母を家に縛り付けてしまうようで抵抗を感じ」ている、と書いています。この「家神」になるということも、きちんと神職からお話を聞かれましたか。その教え自体にもあなたが汲み切れていない奥深さがあるのではないですか。これを機会に、神道に触れていくことが実はお母さんの意にかなっている、とも考えられます。
一度、お家の宗教についてきちんと理解をする。
そのうえで、余裕があれば仏教に触れてみる、の順番がよろしいのではないでしょうか。
神様も念仏すれば極楽浄土に往生できる
浄土宗では、煩悩まみれの私達がこの世で成仏する(悟る)のは難しいと考え、まずは成仏しやすい環境である極楽浄土に生まれ変わる(往生する)ことを目指します。
どうやったら往生極楽できるかというと、極楽浄土を創られた阿弥陀仏に全てをお任せしますという意味の「南無阿弥陀仏」という言葉(念仏)を称(とな)えるのです。
経典の記述によれば阿弥陀仏は、念仏する者を誰でも極楽浄土に迎えてくださると誓っておられます。
だから人間でも神様でも念仏すれば極楽浄土に往生できます。
お母様もあなたも、南無阿弥陀仏の念仏で極楽浄土に往生し、阿弥陀仏の指導の下で成仏(悟り)を目指せるのです。
極楽浄土でお母様に再会できるのを楽しみにしながら、お母様に「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」を聞かせてあげてはどうでしょうか。
お母様は一足先に極楽浄土で仏様見習いになられることでしょう。
なお、経典の物語では、お釈迦様が弟子や信者に阿弥陀仏や極楽浄土について説法してくださっています。
経典と言っても人が創作した物語が含まれている可能性がありますが、みんなもれなく幸せになったら良いのになという慈悲の精神はお釈迦様由来だと思います。
私は神社でも南無阿弥陀仏と唱えて神様にお念仏を奉納し、神様が幸せであるように願って手を合わせます。
合掌
なむあみだぶ なむあみだぶ
なむあみだぶ なむあみだぶ
質問者からのお礼
邦元さま、願誉浄史さま、釋悠水さま
ご回答ありがとうございます。
先日、無事に母の50日祭を終えました。
母はまだ若く、親孝行もできないまま最後は家族に看取られることもできずにこの世を去りました。
こんなにはやく別れが来るとは思ってもおらず後悔ばかりで、
そのうえ死後の世界でも母の望むようにしてあげられないのだという思いでいっぱいでした。
しかし、結局のところ母が何を望んでいたのかは私には分かりません。
特に何も望んでいないかったかもしれません。
おおらかで、常に子供のことを考えていてくれる母親だったので、
本人に聞けば「あなた達のやりやすいようにして頂戴」と言っていたのではないかと、今では思います。
皆さまの回答を読み、勝手な思い込みで一人苦しんでいるだけなのだと気づきました。
母が死後の世界で幸せであれることを、
とにかくこれからは祈り続けようと思います。
ありがとうございました。