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親友にSNSで陰口を言われてた

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中高時代から20年来の友人がいます。社会人になってからも一瞬にご飯を食べに行ったり、旅行に行ったり、お互いに趣味の話をしたりと友達の少ない私にとっては大切な友人でした。

ですが、いつも誘うのは私から。会っても話し下手な私は聞き役に回る事が多く、(もっと私の話を聞いてほしいな)と消化不良で終わる事も多々ありました。

けれども、せっかく時間を作って私と会ったり旅行に行ってくれるのだから、と心を砕き、積極的にお店をリサーチしたりと動いたり、言いたい事や相手への不満を我慢していました。

それが限界にきて、ある時「いつも私ばっかり誘ってる」「なんで私ばっかり我慢しなきゃいけないの?」「もう少しこちらに合わせたり気にかけててくれても良いんじゃないの?」という事を面と向かって彼女に言いました。

その時、彼女は「貴方の事気にかけてるよ」と言ってくれ、溜飲が下がったのですが、その後に彼女のSNSで「あーーー‼︎もう本当精神的に無理」と呟いてるのを発見しました。

彼女曰く、「私も頑固で我儘だけど、相手(私の事です)の方がもっと我儘だしそれを我慢してないと思って『なんでもっと私に合わせてくれないの?』って何言ってるの?」だそうです。「ああもう本当最悪、せっかくの休みを不愉快な気持ちで過ごした」ともありました。

私が彼女のSNSを見ている事は知らないのでしょう。正直、こんなに嫌悪感を募らせていたとは知らず目を疑いました。他の共通の友人からも「またあの人?」「本当、人の気持ちを勘案するの苦手だよねあの人」とリプライがついていて、ショックで涙が溢れてきました。

私がずっと大切な友人だと思っていた人達は、そうではなかったようです。スクショを取って書かれた言葉を読み返す度に心臓がドクドクし、涙が溢れてきます。怒りも込み上げてきます。

私はこの気持ちとどう向き合い、彼女達と今後どう付き合っていくべきでしょうか。もしくは、距離を置き友達なんかいないと割り切って生きていくべきでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

言葉をこえていくコツ

SNSとはすべて本人の独り言です。コメントもすべてその人のひとり呟き。
本当は言葉というものは人間の脳が勝手に縁に触れて思ったことをポンと口にしてしまうだけのものなのです。そこが根本です。SNSの書き込みとはその人間の脳内のつぶやきを「書いた」というだけのことで、その心象作用として生まれた言葉もその時、その場限り、その時点で本人の中ではとっくにおわっているのですから、周りの人は喩え自分に向けられたものであっても無くても、さほどそれほど取り上げる必要はありません。ここをわかるまで何十回もお念じすることをお勧めします。
要は他人の頭の中のことは他人であるあなたは干渉できないのです。あなただってあなたが今ここで書き込んだことは他人さまは干渉できません。
その人も別にあなただけと関わっているわけではありませんし、心のコンディションもその「つぶやき」に至るまではかれこれのごたごたがあったのかもしれませんし、人間の感情というものは様々な縁によって火がついたりするものですから、それもあなたがその人の心を制御することはできません。
また、人から言われた言葉を取り扱うのは誰でしょう、どこでしょう、いつどこでやっておられることでしょう。
ネットの書き込みというものはネットの書き込みと申しましても上述の通り、その時、その場所で、そのタイミング、その状況下で「たまたま思ったことがポロたん🌰しただけ」ですから、本当はそのことは咳払いやくしゃみのようにそこで完全に終わり果てているのです。へっくしょん。(完了)
以下のことを理解していただきますと、他人の言葉には振り回されることはありません。
◎言葉というものはその時の様々な感情が寄せ集められて「たまたま」そういう言葉になってしまっただけ。
◎言葉というものはそのご本人が発したというだけのモノであってあなたのものではない。
◎仮にあなたに向けられた言葉であっても、そこで傷つくことと、本人との今後の関係修復とは別物。
◎感情というものは人によって表現方法が異なるもの。その言葉があなたにとっては厳しく感じられる言葉であっても、その人の家庭・育ちでは何気ないものだったりするものです。アーメンドクセー、うざっ、ザッケンナヨとか、あー、もう精神的に無理とか、表ではあまり言わない言葉でも家庭内では普通に言ってたりするもんです。
お大事なさってください。✨

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今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丁寧なご回答ありがとうございます。
「言葉は発した本人のものであり、他人である私がどうこうできるものではない」この考え方に少しだけ心が楽になりました。彼女のSNSで、その時その瞬間で終わった筈の彼女の言葉をいつまでも反芻し、ずっと悩んだり傷ついたりと感情のアップダウンを繰り返している私はまさに「言葉に振り回されている」状態そのものでした。
それに気付き、少し冷静になってみると私は彼女に対して甘え過ぎていたり、独り善がりな優しさを見せていたように思います。今後も、私から声をかけない限り彼女と会う事はないでしょう。それでももし機会があったのなら、彼女の呟きは見なかった事にして丁寧に彼女に向き合いたいと思います。
改めて、ありがとうございました。

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