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もしブッダがナイフで刺されたら【他2点】

回答数回答 3
有り難し有り難し 62

仏教の初学者です。何卒よろしくお願い致します。
 
①ブッダがナイフで刺されたら、どう反応されたでしょうか。
 慈悲で相手を許されるかと思いますが、止血しようとしますか?
 「生への執着」すら持たないのでしょうか。(想像で構いません)
 
②より良い生のため、「知足」と「向上心」をどう両立させるか?
以下の4パターンを考えてみました。
 
【良さそうな例】
A「相手のため」×「向上心」 (例)より喜ばれる仕事をしたい
B「自分のため」×「知 足」 (例)菜食で十分
 
【悪そうな例】
C「相手のため」×「知 足」 (例)今の仕事の質で十分
D「自分のため」×「向上心」 (例)より美味しい食事をしたい
 
しかし、諸法無我を考えると混乱します。
異なる線引きが適切でしょうか?    
また、向上心は往々にして執着/煩悩に変わりそうですね。。
 
③人間は「感覚」に「反応」して、喜んだり悲しんだりするかと。
 
A 感覚「喉が渇いた」etc.
B 反応「不快だ」etc.
 
瞑想や修行で、A⇒Bの繋がりを弱めることは可能だと思います。
悟りとは、A⇒Bの繋がりが無くなる(=涅槃)との認識です。

そこで質問。悟ったら、生きてて楽しいのでしょうか?
(批判する意図は全くありません)
 
一切皆苦を前提とした上で、喜んだり悲しんだり「いま」を味わうのが「生きる」とすると、悟ってどんな「いいこと」があるのでしょうか?
(メタに考えると、一切皆苦から逃げたいという煩悩がある?)
 
或いは、煩悩と悟りの間でどうバランスを取られているのでしょうか?
 
長文失礼いたしました。
ピントがずれているかもですが、何卒宜しくお願い致します。
 

2021年11月26日 18:35

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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

悟りとは、廃人になることではありませんよ。

質問読ませていただきました。

悟りというものがどのような感覚か・・それは悟ったことがない者には分かりません。末法の凡夫である我々には、生きながら悟りを開く事は土台無理ですから、その質問に正確に答えられる人はいないでしょう。
しかし、私の感覚としてお答えさせていただきます。

質問者様の質問は複数ありますが、そのどれもに共通する認識は「悟りを開くと全ての欲(善も悪も含めて)が失われて、廃人のようになる」というものではないでしょうか?
ですから、「生への執着から止血するのか?」「知足と向上心の関係」「感覚と反応」といったところに固執してしまうのでしょう。

しかし、「悟りを開かれた仏様が望まれたことは何か?」に焦点を当ててみて下さい。それは「全ての人を救いたい」、これに尽きるでしょう。悟りを開かれて、自分1人だけ苦しみのない世界に存在することができるにも関わらずです。
「全ての人を救いたい」という思いは欲望であり、執着とも言えるかもしれません。しかし、悟りを開かれた仏様はそれを望まれるのです。

つまり、「悟りとは全ての欲を捨て去って廃人のようになることではない」ということだけは、はっきりと分かるのではないでしょうか。悟りについてそれ以上のことは、浅学非才の私には残念ながら分かりません。

また、仏教の基本的な考え方は、「苦しみのない境界に生まれ変わろう(成仏しよう)」ということです。「今世を幸せに生きよう」という考え方自体は否定しないものの、今世の命や幸せに拘らず、根本的な苦の原因から抜けだそうというのが目的です。
ですから、「いいことがあるのか?」という質問には、端的に言うなら「苦しみのない境界に生まれることが出来る」ということではないでしょうか。

何か少しでも参考にしてみて下さいね。

2021年11月26日 23:06
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有り難し
おきもち

京都府・大阪府・奈良県の県境に当たる、京都府京田辺市の天王院というお寺でお...
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頼まれたらやり遂げてしまうブッダ

一切皆苦を悟り生への執着を無くし、寿命が尽きたら無余涅槃確定の状態だったブッダに、梵天が人類救済(布教活動)を依頼しました。
ブッダは了承。
つまり、ナイフで刺された傷が布教活動の妨げになるなら、ブッダは治療されたでしょう。
しかしブッダは弟子に、たとえノコギリで体を切られても相手を憎んではいけないと慈悲・怒らないを説いています。
また、ブッダは信者に食事に招かれたら基本的に断りませんでした。それも先着順。
また、ブッダはご自身が病床でも弟子入り志願者を受け付けました。
また、ブッダは悪魔から「もう弟子も信者も立派に育ったのだからそろそろ死んでください」と頼まれ、「それもそうだな」と死期を決めました。
また、ブッダは膨大な教えを論理的にまとめて説かれました。
梵天から布教を頼まれて引き受けたら、どのように教えたら理解されやすいか創意工夫の能力と熱意が半端ない。
つまり、ブッダは執着やエゴや怒りがなく、怠けもなく、慈悲深く、だから頼まれたことを身軽に引き受け、しかも凄い能力で見事にやり遂げてしまうお方だったのです。
肉体的な苦痛のケアは普通にされていました。
生きている限り苦痛は無くならないと理解されていたので、愚痴ったり嘆いたりはなさらなかったのではないでしょうか。
しかし、苦痛をケアする方法があるならそれをやったでしょう。経典でも、喉が渇いたら水を飲みたいと言われています。それは肉体にセットの苦痛ですからね。
あくまで私の想像です。

2021年11月29日 19:41
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おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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百尺の竿頭一歩を歩むです

 悩める会社員さん、仏教のことを調べていると色々気になりますよね。だって綺麗ごとを並べている本が多いと思いますから。
 道元禅師は修証一如と申しました。修行と悟りは一体であるという意味です。修行をしなくては悟りは開けない。悟りを開いたからといって修行を止めるとそれは悟りでなくなる。修行は続くのです。そこに今回の質問の半分は回答出来たかな。と思います。私は悟りとは何事にも肯定的にとらえることが出来なくてはならないと思っております。それは人間である内は難しいと思います。
 ①の質問はお釈迦様に聴かないと分かりません。ただ、涅槃のまえにチュンダの食事で豚肉料理を食べて、食中毒を起こしたがチュンダを許した経緯があります。
 ②向上心と知足は同じように受け入れることだと思います。最近、SDG`Sで知足を奨励しているようですが、それを実践するために良し悪しは別として別の形で向上心が働いていると思います。
 ③感情を亡くすことが悟りでなく感情を受け入れることが悟りと思います。あるがままを受け入れ自分がその上でどうしていくか?それを実践することが修行一如です。
 以上のことは私の見解もあると思い、僧侶によってさまざまな解釈があります。それはそれで受け入れて下さい。回答は回答で答えは多様性ですね。だから、よく仏教は難しいと言われがちですね。

2021年11月27日 7:21
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有り難し
おきもち

あなたの小さな悩み相談お答えします  私があなたの悩みを解決するのでは...
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質問者からのお礼

早速ありがとうございました!
考え方の大きな方向性について、大変勉強になりました。
 
「悟り=廃人」とまでは言いませんが、「悟った状態」のイメージを漠然とでも掴みたく、お伺いした次第でした。
3つの質問の共通認識をくみ取って頂き、とても助かりました。
 
以下は、頂いた回答を踏まえた独り言です。
改めて、自分でも考えてみます。。
 
理解
・苦の原因から「完全に抜け出す」(=悟る)のは、出家・修行をしても、ほぼ不可能
・現実的には、「煩悩以上~悟り未満」のどこかで折り合いをつける必要あり
 
疑問
・ゴール(悟り)に近づいただけ、「苦」は和らいでいくのか(?)
・ゴール(悟り)のイメージが具体化した方が、より早く近づいていけるのでは(?)
・お釈迦様は、「一切皆苦を和らげたい」という煩悩からスタートし、結果として、「苦の無い世界を発見した」イメージか(?)
・しかし、苦を減らすことをモチベーションに修行すると、それが煩悩となり、悟ることを遠ざけるような構造なのか(?)
・結局、「良い生」とは何か。苦の無い世界に多くの人を導くこと(?)
・結局、悟ったとしても、悟ったことに人間は「慣れる」のでは(?)
⇒苦の世界、苦の無い世界にも慣れるのが人間なら、悟り自体に意味はなく、「悟りに近づくプロセス」の中にのみ意味がある(?)
 
備考
・凡人ゆえ、本音としては、「今世の命や幸せ」に拘りたい。。
・ややこしく考えすぎ(?)
 
改めまして、ありがとうございました!

ちょい悪坊主様
(失礼、お名前入力できず。。)
 
ご回答ありがとうございました。
修証一如、よく分かりました。
 
粗いですが、こう理解しました。
・生き方や考え方について、特に個別具体的なことについては、仏教としての明確な回答や、統一見解が無いこともある
・むしろ自身で内省や修業し、良い悪いの価値判断を弱め、ありのままを受け入れられるようになること。良き生を自身に問い、試行錯誤し行動し続けることが仏道なのである
(競技スポーツで金メダルを目指すのではなく、武道的なイメージ)
 
少し考えてみたいと思います。
ありがとうございました!

願誉浄史様
 
様々なエピソードをご教示頂き、ありがとうございました!
お釈迦様の人となりを窺い知ることができました。
 
理解が深まったように思います。恐らくは3ステップなのですね。
①喉が渇いた(感覚/生体反応)
②不快な感覚だ(反応/心の条件付け)
③水飲みたい(欲求)
 
①は、自然と生まれる現象。あるがまま。良いも悪いもない。
②は、快・不快などの価値判断が入っているため、望ましくはない。
以下2パターンで対処する
★喉の渇きの感覚をあるがままに受け止め、ただ観察する。
★「不快と価値判断したこと」自体も価値判断せず、ただ観察する。
 
③生物として自然な欲求。
水を飲みたい欲求(煩悩)は、善でも悪でもなく、ただ観察する対象。
観察した上で、「生存や渇きをいやすこと」に執着せずに、水を手に入れることをトライする。
 
といった所でしょうか。
分かるような、分からないようなですね・・

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YouTubeのオススメに「良い人・優しい人が損する理由はこれです」みたいな動画があったので、とりあえず観てみました。その動画には「ブッダの教え」というサブタイトルが付けられていました。 優しさと思いやりが、いいように利用され苦しむ主人公の話でした。 その後、主人公が見つけた答えは、 ①「自己尊重と他者への尊重のバランス(自分自身と他人の間に健全な境界線を引く)」 ②「自分の気持ちや考えを尊重してもらえない関係は健康的ではないと理解しそのような関係とは距離を置く」 ③「支援や協力が真に価値を持つ場合にのみそれらを提供するようにする」 というものでした。 私にはとても良い話に感じましたが「我を無くす」から遠のいてるようにも見えて、この話をどこまで鵜呑みにしていいのか迷っています。 「ブッダの教え」とありますが、この動画に出てくる登場人物名や逸話をネットで検索してもそれらしいソースが見つかりませんでした。 (生きにくさを抱えた現代人向けの創作?) ここでお坊様方にお聞きしたいのは①②③は仏教的に見て、実行しても大丈夫な内容でしょうか。 またお坊様方の考えなどもお聞かせ頂けたらと思います。 よろしくお願いします。 補足です。 私は優しさ・善良さとは程遠い人間ですが、周りではよく聞く話だったので、このテーマに関心がありました。

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