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もしブッダがナイフで刺されたら【他2点】

回答数回答 3
有り難し有り難し 58

仏教の初学者です。何卒よろしくお願い致します。
 
①ブッダがナイフで刺されたら、どう反応されたでしょうか。
 慈悲で相手を許されるかと思いますが、止血しようとしますか?
 「生への執着」すら持たないのでしょうか。(想像で構いません)
 
②より良い生のため、「知足」と「向上心」をどう両立させるか?
以下の4パターンを考えてみました。
 
【良さそうな例】
A「相手のため」×「向上心」 (例)より喜ばれる仕事をしたい
B「自分のため」×「知 足」 (例)菜食で十分
 
【悪そうな例】
C「相手のため」×「知 足」 (例)今の仕事の質で十分
D「自分のため」×「向上心」 (例)より美味しい食事をしたい
 
しかし、諸法無我を考えると混乱します。
異なる線引きが適切でしょうか?    
また、向上心は往々にして執着/煩悩に変わりそうですね。。
 
③人間は「感覚」に「反応」して、喜んだり悲しんだりするかと。
 
A 感覚「喉が渇いた」etc.
B 反応「不快だ」etc.
 
瞑想や修行で、A⇒Bの繋がりを弱めることは可能だと思います。
悟りとは、A⇒Bの繋がりが無くなる(=涅槃)との認識です。

そこで質問。悟ったら、生きてて楽しいのでしょうか?
(批判する意図は全くありません)
 
一切皆苦を前提とした上で、喜んだり悲しんだり「いま」を味わうのが「生きる」とすると、悟ってどんな「いいこと」があるのでしょうか?
(メタに考えると、一切皆苦から逃げたいという煩悩がある?)
 
或いは、煩悩と悟りの間でどうバランスを取られているのでしょうか?
 
長文失礼いたしました。
ピントがずれているかもですが、何卒宜しくお願い致します。
 

2021年11月26日 18:35

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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

悟りとは、廃人になることではありませんよ。

質問読ませていただきました。

悟りというものがどのような感覚か・・それは悟ったことがない者には分かりません。末法の凡夫である我々には、生きながら悟りを開く事は土台無理ですから、その質問に正確に答えられる人はいないでしょう。
しかし、私の感覚としてお答えさせていただきます。

質問者様の質問は複数ありますが、そのどれもに共通する認識は「悟りを開くと全ての欲(善も悪も含めて)が失われて、廃人のようになる」というものではないでしょうか?
ですから、「生への執着から止血するのか?」「知足と向上心の関係」「感覚と反応」といったところに固執してしまうのでしょう。

しかし、「悟りを開かれた仏様が望まれたことは何か?」に焦点を当ててみて下さい。それは「全ての人を救いたい」、これに尽きるでしょう。悟りを開かれて、自分1人だけ苦しみのない世界に存在することができるにも関わらずです。
「全ての人を救いたい」という思いは欲望であり、執着とも言えるかもしれません。しかし、悟りを開かれた仏様はそれを望まれるのです。

つまり、「悟りとは全ての欲を捨て去って廃人のようになることではない」ということだけは、はっきりと分かるのではないでしょうか。悟りについてそれ以上のことは、浅学非才の私には残念ながら分かりません。

また、仏教の基本的な考え方は、「苦しみのない境界に生まれ変わろう(成仏しよう)」ということです。「今世を幸せに生きよう」という考え方自体は否定しないものの、今世の命や幸せに拘らず、根本的な苦の原因から抜けだそうというのが目的です。
ですから、「いいことがあるのか?」という質問には、端的に言うなら「苦しみのない境界に生まれることが出来る」ということではないでしょうか。

何か少しでも参考にしてみて下さいね。

2021年11月26日 23:06
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有り難し
おきもち


京都府・大阪府・奈良県の県境に当たる、京都府京田辺市の天王院というお寺でお...
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百尺の竿頭一歩を歩むです

 悩める会社員さん、仏教のことを調べていると色々気になりますよね。だって綺麗ごとを並べている本が多いと思いますから。
 道元禅師は修証一如と申しました。修行と悟りは一体であるという意味です。修行をしなくては悟りは開けない。悟りを開いたからといって修行を止めるとそれは悟りでなくなる。修行は続くのです。そこに今回の質問の半分は回答出来たかな。と思います。私は悟りとは何事にも肯定的にとらえることが出来なくてはならないと思っております。それは人間である内は難しいと思います。
 ①の質問はお釈迦様に聴かないと分かりません。ただ、涅槃のまえにチュンダの食事で豚肉料理を食べて、食中毒を起こしたがチュンダを許した経緯があります。
 ②向上心と知足は同じように受け入れることだと思います。最近、SDG`Sで知足を奨励しているようですが、それを実践するために良し悪しは別として別の形で向上心が働いていると思います。
 ③感情を亡くすことが悟りでなく感情を受け入れることが悟りと思います。あるがままを受け入れ自分がその上でどうしていくか?それを実践することが修行一如です。
 以上のことは私の見解もあると思い、僧侶によってさまざまな解釈があります。それはそれで受け入れて下さい。回答は回答で答えは多様性ですね。だから、よく仏教は難しいと言われがちですね。

2021年11月27日 7:21
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おきもち


ちょい悪坊主を目指しています。尊敬する人は一休さん。
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頼まれたらやり遂げてしまうブッダ

一切皆苦を悟り生への執着を無くし、寿命が尽きたら無余涅槃確定の状態だったブッダに、梵天が人類救済(布教活動)を依頼しました。
ブッダは了承。
つまり、ナイフで刺された傷が布教活動の妨げになるなら、ブッダは治療されたでしょう。
しかしブッダは弟子に、たとえノコギリで体を切られても相手を憎んではいけないと慈悲・怒らないを説いています。
また、ブッダは信者に食事に招かれたら基本的に断りませんでした。それも先着順。
また、ブッダはご自身が病床でも弟子入り志願者を受け付けました。
また、ブッダは悪魔から「もう弟子も信者も立派に育ったのだからそろそろ死んでください」と頼まれ、「それもそうだな」と死期を決めました。
また、ブッダは膨大な教えを論理的にまとめて説かれました。
梵天から布教を頼まれて引き受けたら、どのように教えたら理解されやすいか創意工夫の能力と熱意が半端ない。
つまり、ブッダは執着やエゴや怒りがなく、怠けもなく、慈悲深く、だから頼まれたことを身軽に引き受け、しかも凄い能力で見事にやり遂げてしまうお方だったのです。
肉体的な苦痛のケアは普通にされていました。
生きている限り苦痛は無くならないと理解されていたので、愚痴ったり嘆いたりはなさらなかったのではないでしょうか。
しかし、苦痛をケアする方法があるならそれをやったでしょう。経典でも、喉が渇いたら水を飲みたいと言われています。それは肉体にセットの苦痛ですからね。
あくまで私の想像です。

2021年11月29日 19:41
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有り難し
おきもち


がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

早速ありがとうございました!
考え方の大きな方向性について、大変勉強になりました。
 
「悟り=廃人」とまでは言いませんが、「悟った状態」のイメージを漠然とでも掴みたく、お伺いした次第でした。
3つの質問の共通認識をくみ取って頂き、とても助かりました。
 
以下は、頂いた回答を踏まえた独り言です。
改めて、自分でも考えてみます。。
 
理解
・苦の原因から「完全に抜け出す」(=悟る)のは、出家・修行をしても、ほぼ不可能
・現実的には、「煩悩以上~悟り未満」のどこかで折り合いをつける必要あり
 
疑問
・ゴール(悟り)に近づいただけ、「苦」は和らいでいくのか(?)
・ゴール(悟り)のイメージが具体化した方が、より早く近づいていけるのでは(?)
・お釈迦様は、「一切皆苦を和らげたい」という煩悩からスタートし、結果として、「苦の無い世界を発見した」イメージか(?)
・しかし、苦を減らすことをモチベーションに修行すると、それが煩悩となり、悟ることを遠ざけるような構造なのか(?)
・結局、「良い生」とは何か。苦の無い世界に多くの人を導くこと(?)
・結局、悟ったとしても、悟ったことに人間は「慣れる」のでは(?)
⇒苦の世界、苦の無い世界にも慣れるのが人間なら、悟り自体に意味はなく、「悟りに近づくプロセス」の中にのみ意味がある(?)
 
備考
・凡人ゆえ、本音としては、「今世の命や幸せ」に拘りたい。。
・ややこしく考えすぎ(?)
 
改めまして、ありがとうございました!

ちょい悪坊主様
(失礼、お名前入力できず。。)
 
ご回答ありがとうございました。
修証一如、よく分かりました。
 
粗いですが、こう理解しました。
・生き方や考え方について、特に個別具体的なことについては、仏教としての明確な回答や、統一見解が無いこともある
・むしろ自身で内省や修業し、良い悪いの価値判断を弱め、ありのままを受け入れられるようになること。良き生を自身に問い、試行錯誤し行動し続けることが仏道なのである
(競技スポーツで金メダルを目指すのではなく、武道的なイメージ)
 
少し考えてみたいと思います。
ありがとうございました!

願誉浄史様
 
様々なエピソードをご教示頂き、ありがとうございました!
お釈迦様の人となりを窺い知ることができました。
 
理解が深まったように思います。恐らくは3ステップなのですね。
①喉が渇いた(感覚/生体反応)
②不快な感覚だ(反応/心の条件付け)
③水飲みたい(欲求)
 
①は、自然と生まれる現象。あるがまま。良いも悪いもない。
②は、快・不快などの価値判断が入っているため、望ましくはない。
以下2パターンで対処する
★喉の渇きの感覚をあるがままに受け止め、ただ観察する。
★「不快と価値判断したこと」自体も価値判断せず、ただ観察する。
 
③生物として自然な欲求。
水を飲みたい欲求(煩悩)は、善でも悪でもなく、ただ観察する対象。
観察した上で、「生存や渇きをいやすこと」に執着せずに、水を手に入れることをトライする。
 
といった所でしょうか。
分かるような、分からないようなですね・・

「仏教全般」問答一覧

釈尊の悟りは神通力を得た結果?

 仏教には「一切智」という言葉があるそうですね。下記の資料で知りました。 2021-01-12  一切智とは三明のこと  仏陀は、6年間にわたる苦行(断食行と止息行からなる)は、何ももたらさないと考え、スジャーターからもらった乳粥を食べ、瞑想に入ります。 そこで、四禅を行じ、三明を得ます。 この三明こそ、仏陀の悟りを解き明かすものです。 仏陀が言う一切智とは三明のことです。 三明とは、宿住智、天眼智、漏尽智のことです。 【宿住智】についての記述 わたしは欲するままにさまざまな過去の生存を思い起こす。 すなわち一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯、四つの生涯、五つの生涯、十の生涯、二十の生涯、三十の生涯、四十の生涯、五十の生涯、百の生涯、千の生涯、十万の生涯、幾多の消滅の劫、幾多の生成の劫、を思い起こす。 そこにおいては、わたしはこのような名前であり、このような姓であり、このような種族であり、このような食べ物を食べ、このような安楽と苦痛を感受し、このような寿命をもっていた。 そのわたしはそこから死没してこのところへ再生し、そこでも、このような名前であり、このような姓であり、このような種族であり、このような食べ物を食べ、このような安楽と苦痛を感受し、このような寿命をもっていた。 そのわたしはそこから死没し、この世へ再生した。 このように様々な過去の生存を、様相と細かな状況ともども、思い起こす。 (後略)  この桁外れの記憶力は神通力に依るものではないでしょうか?「欲するままに思い出すことが出来る」とは単なる記憶ではなく神通力を発揮したときそれが可能になると考えられます。 更に濾尽智ではより深い瞑想にふけり、宿住智以上の神通力を深め、それよりはるかに遡って物質誕生以前の宇宙まで見通して得た、実体がない「空性」を発見したのです。  駒沢大学学長を歴任された水野弘元先生は著書「釈尊の生涯」で次のように語られています。「後夜には、世界人生の真理に関する智慧としての濾尽智通(濾尽明)を得たとせられる」と表現されましたが、「世界」は多分「諸法」の翻訳と思われますのでこれを「宇宙」と翻訳されていたら「世界人生」が「宇宙人生」即ち「宇宙生成に関する智慧としての濾尽智通」となり、世間の注目を浴びて早い段階で「空性」とは何かが明確になったと思います。

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仏教は反権力主義?ご信徒様との付き合い方

 いつもお世話になっております。  毎週、近所のお寺の法座に上がってお勤めをしているのですが、 数年前に通うようになった2人の奥様が気に掛かるのと、それに付随 した10年来の疑問があります。  法座が終わるとお堂の外に出て皆さんで世間話をするのですが、 お寺の境内でするにはあまりにも不適切な内容の話で奥様が 盛り上がります。 「皇族の@@殿下は頭が悪い」 「@@(大企業)の社長、旅行に行ったきり帰ってこなければいいのに」 「政治家の@@は裏でこういう事をしているそうよ。嫌ね」 というような、大企業、皇室、政治家などといったいわゆる「力ある 人」の醜聞や誹謗中傷です。  私も一時期、聞かなければ失礼かと思ってそれにお付き合いして しまっており、別の参詣者様が後ろで 「信じらんない…」 と呟いていたのを聞き、同類視されたと思い、あまりのショックで 帰宅して嘔吐しました。  お寺に全く行かない私の知人も、 「お寺に行かない私でも、そんな話はお寺でする話じゃないってわかる」 と言っていました。  1人の奥様は栄養士の資格を持っているので、役に立つ事を教えて くれます。それはありがたいので聞きます。しかしそういった悪い ゴシップが始まると、私は一緒くたにされたくないので 「お先に失礼いたします。お疲れ様でした」 と言って早々に離脱するようにしました。  先述のように、普通はお寺で人の悪口や醜聞など語るべきではないと 思っています。  権力に歯向かうのが功徳になるとでも思っているのでしょうか。 昔通っていて今決別した寺院も、住職が 「@@主義は仏法に通じる」 と公言し、寺報で政策を優しさの中に激しさを包含する言葉で批判する などしていました。まるで過激派の機関誌です。  私は当時体調がよくなく、でも家に籠っているのは嫌なので日参を していたら寺の職員全員から執拗な嫌がらせを受けました。  別のお寺でも、境内で防犯キャンペーンをしていた警察の人に 大声で暴言を吐き、言い終わった後にお坊さんを捕まえ、警察の人が 聞こえるように警察の人を指さして喚き散らしていた人を見たことが あります。  せっかく気持ち良くなりたくてお寺に来ているのに…これも修行 でしょうか。私の対応は適切ですか?また、仏法は反権力主義 なのですか?  ご教授よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 23
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日常的にお釈迦様の教えに触れたいです

以前、上司からのパワハラについてこちらで相談させていただきました。 その後、仏教について改めて調べました。お釈迦様の考えを思い出すことで、少しだけ仕事でのストレスが減ったように感じました。 その経験から日々、何かしら仏教の教えに触れたいと感じるようになりました。   仏教については幼稚園と大学が浄土真宗真宗大谷派で、お釈迦様の教えと親鸞聖人については少しだけ知っています。 しかし、お釈迦様の教えに触れられる方法で私が知っているのは教えを幼稚園児が学べるようにした歌のみ、物としては手元には大学からもらったお守り的なお数珠があるのみです。   祖父が住職だったこともあってか、小さな仏様の像は家にあるのですが、他の家族の部屋にあり私はあまり入ることができませんし、入ることができても仏様に手を合わせることしか仏教に触れる方法が分かりません。 ネットや図書館で探してみても、同じ宗派でも内容がさまざまでよく分かりませんでした。 また、転勤族のため特定のお寺の檀家ではなく、気軽にそういった相談ができるお寺がありません。   そこで ・宗派的にどのお経を唱えれば良いのでしょうか ・大学でもらったお守り的な数珠は身につけた方が良いのでしょうか ・念持仏など小型でも仏像を持った方が良いのでしょうか ・念持仏をお迎えすることとなった場合、真宗大谷派では阿弥陀如来一佛を本尊としていますが、干支守り本尊は不動明王である場合はどちらを選べば良いのでしょうか ・檀家でなくても、同じ宗派ならお寺にお話を聞きに行っても良いのでしょうか。   以上を質問させていただきたいです。 無知ゆえ、お坊さんからすると当たり前のことをお尋ねしているかもしれませんが、教えていただけますと幸いです。

有り難し有り難し 11
回答数回答 1

仏や神の教えを信じれなくなりそうです

母や父の周りも住職さんや僧侶の知り合いが多く仏教の教え等胸に刻んで生きてきました。この世は修行の為にあり、体は借り物のため物事に執着をあまりせず、人には優しくし困った人には施しを行い、ご先祖様や神様仏様は見えずともいて彼らを敬い粗末にしてはいけない。 人にしたことは必ず自分に返ってくるから見返りは求めずに善行を積みなさいと教えられ生きてきました。 最近度重なる不幸が続き、この世が修行だとしても心が折れそうです。 善行を詰んでいたのは無意味だったのではないか。 私だって人に施したり助けたりではなく助けられたい、甘えたい。 会社でも善行の積んだおかげか、ある程度の地位に若くしてなることができましたが。頼られることはあっても頼れることは少なく、人生修行の一環だとしてもこんなに辛いならなんの為に教えに沿って生きてるかわからなくなりました。 理不尽にもほどがあり、こんなに理不尽続きならもうなにもかも諦めて投げ捨ててしまいたいと思ってます。 それでも修行の一環は続くのでしょうか。仏様や神様の教えにしたがってた私は何一つ報われないのでしょうか。辛すぎます。 なにか少しぐらい救われたっていいのではないかと悲しい気持ちに負けそうです。 お坊さん方はどのようにこの様な気持ちを乗り越えたりするのでしょうか。よろしくお願いします。

有り難し有り難し 15
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現世安穏後生善処 

 この言葉は私が最も好むこの世の処世術です。  私がこれを知ったのは数年前、法華経のCD販促の新聞広告ですが、その解釈が「現世安穏とは、自分だけが幸せになることではありません。お釈迦さまのいう幸せは、他の多くの人々の幸せがあって初めて自分の幸せがある、ということです。」 となっていました。  あまりの意訳に唖然としたのですが、釈尊の説教は判りやすく伝えていますから、直訳で充分の筈です。   これは多分最も貧しい村に、弟子らが布施が少ないと反対したのを振り切って説教に赴いたときの言葉ではないかと想像します。  貧しさで苦しみと恨みに満ちていたところを、現世は心にとって仮の姿であるから安穏な気持ちを持って過ごすようにすれば、後生は良いところに生まれるよと諭したのだろうと想像します。  貧しくなくても人間関係で苦しみや恨みも生じやすいので、それをプラス思考で安穏に過ごせば、後生は吉報が待っている気がします。  現世では生きるために直接、間接の殺生を積み重ねていますから、通常の人間にはその悪業は免れません。今生は今更悪行を我慢したり改めることなく、後生に「精進料理」を残して置いて、安穏を優先するのが良策かと思っています。  しかし果たして後生にその記憶が残っているかは心もとない限りです。  互いに安穏であれば争いも少なくなるし、自殺の心境では後生で更に悪化するので、思い止まるきっかけにもなるでしょう。

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日本人が穏やかなのは大乗仏教のお陰様。

日本人が穏やかなのは大乗仏教のお陰様ですよね? 個人の感想としては、海外と比較して日本人の気質が比較的に穏やかなのは大乗仏教の価値観が大多数の日本人に浸透しているお陰様だと思います。 日本に在るお寺の数はコンビニよりも多いそうですね。宗派を問わず、それだけの数のお寺が在ることだけでも大変意義の有ることだと思います。 たまに、上座部仏教(原始仏教)に対して大乗仏教はブッダの直説ではないから本当の仏教ではないという説(大乗非仏説)を聞きますが、どのお経がブッダの直説なのかは今現在でも分かっていないし、ブッダは各個人それぞれに適した説法をしたという対機説法が基本でしたから、お経を選別するよりも全てのお経を平等に重んじる方が有意義であると思います。 それに、上座部仏教は教義が過激で、何がなんでも煩悩を滅することだけを強調し過ぎて、生きることそのものまでも否定してしまう危険性が有ると思います。現に、上座部仏教が主流であるタイやスリランカでは自殺率が高いという話も聞いたことがあります。 以下、ポエム。 坐禅して、無我になる。安楽への道。 読書、ラジオ、散歩、囲碁、将棋、チェス、オセロ、トランプ、花札、ウノ、麻雀、ぷよぷよ、テトリス、謎解き、脳トレ。

有り難し有り難し 14
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