看護学校に通いたい
現在25歳です。今やっている仕事がどうしても自分に合っていなくて、学生の頃から考えていた上に手に職をつけて一生働ける資格が欲しいと思い、看護学校に通いたいのですが、金銭的にも地元で1番安い看護学校しか駄目です。ですが、そこの看護学校の実習先の病院が、高校時代に私をいじめていた子達が何人も働いている病院で、とても怖く感じています。勉強を見てもらっている人には今の学力だとほぼ100%受かると言われたのですが、実習などで彼女らと会うと考えたらとても怖くて仕方なくなります。
もう何年も会っていないのですが田舎なのでまた変な噂を流されたりしたらどうしようと今から不安になっています。
でも、一度しかない人生でやりたいことをこんな理由で踏みとどまってしまうのはやはり私の意思が弱いからなのでしょうか。
これからの人生、私はどうすればいいのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
敢えて、そこを選択する必要はないんですよ。
拝読させていただきました。
人はそれぞれの立場をもって生きています。
過去に起きた出来事は、ぽんずさんにとって苦い思い出が脳裏を巡る段階であれば、今は高くとも環境を変えて看護学校に行くことです。
それはなぜなのか?
例えを一つ表します。
「目の前に水溜まりがあれば、人はどうするでしょうか?」
答え「わかっているなら避けて水溜まりにわざわざ足を入れてまで、近道することはない。」
と、基本的になるでしょう。いわゆる“急がば回れ”の法則です。近道することにより、靴は汚れ、かえって拭くことに時間をとらわれたり、水溜まりを避けてでも他の道を選択しておけばよかったと後悔の念が芽生える機縁をつくることになるからです。
また“安物買いの銭失い”と聞いたことはあることでしょう。これも同じように、安いものを買うことにより、かえってお金の損失は大きくなったりすることもある例えです。
・行ってみなければ分からないのも現実です。
人はその時の仲間内でのノリやついつい周囲に圧された勢いでイジメをしていた人も少なくはありません。大人になるにつれてイジメをした側の後悔を背負っている人が多いものです。しかし、看護師資格をもっていてもいなくても看護士はストレスが溜まる仕事でもあります。まだ知識や経験不足からストレスを感じたときには攻撃的になる人もいるかも知れません。
仏教はすべて世の成り立ちは因果の法則です。この因という原因があるからすべてが成立していくのですが、原因には善悪が生じます。嫌いな人がいるのに、ひょっとしたら今は大丈夫かもという不安をもって学びに行くのと、できる限り新しい縁という原因からは自己責任として捉えることもできるでしょう。
人は多くのご縁によって人脈、人生観は形成される中で、大半の人々は嫌いな人が存在します。仏教では怨憎会苦といいます。
ご縁によって救われることもあるでしょう。しかし、敢えて先見できる環境があるのなら、他の学校という選択をしていくことです。勉強をし、国家資格を得、人を救済するこれからの一つの夢をもつ人には、過去の人間関係に、ぽんずさんの人生の時間を奪われてたまるか!と思ってみてください。
応援していますからね。
合掌
質問者からのお礼
ありがとうございます。相談して良かったです。自分の1度しかない人生、もう少し深く考えてみたいと思いました。