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阿弥陀如来とイエス?阿弥陀仏の信じ方。

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仏教、特に最近では浄土真宗に関心がある者なのですが、「阿弥陀如来とは何か」「(阿弥陀仏を)信じるとはどういうことか」という疑問が拭えず、調べていくと、こういう文章に出逢いました。

〈親鸞聖人のおすすめ下さる信心は、「思い込み疑わないこと」という意味ではなく、「疑いがなくなって帰依する」という意味であります。「疑いがなくなる」とは「明らかになる」ということです。
では、何が明らかになるのかと言いますと、縁にふれたら、どちらへ転んで行くか解からないような危なっかしい自分の相が明らかになると共に、「あなたがどちらに転んで行こうがほっておく事はありません」と、私をしっかり抱きしめて下さる確かな阿弥陀如来のお心が、明らかになるのです。〉

阿弥陀仏が他の宗教でいう絶対神(創造神)ではないことは聞いたことがありますが、こういった文章を読むと、多分にそういった要素があると感じてしまいます。上記引用の阿弥陀如来をイエスに置き換えればそのままキリスト教ではないでしょうか?

仏教は、釈迦が無記を説いたように、形而上のことは判断しないとする極めて理知的な宗教だと思うのですが、浄土真宗のお坊様方はは、いつも傍らにいて下さるイエス様を信じるように、阿弥陀仏を信じておられるのでしょうか。そうでないならば、どのような形で阿弥陀仏を信じておられるのでしょうか。

不躾な質問の仕方になってしまい大変恐縮ですが、御回答いただけると幸いです。よろしくお願いいたします。

2022年1月10日 21:23

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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

浄土真宗では衆生に信じるウェイトはない

こんにちは。

浄土真宗とご縁があったのですね。
喜ばしいことです。
あなたの一助となればと思い回答します。

そもそも「阿弥陀仏の信じ方」という表現自体に違和感を感じます。

そこには、衆生である私の方が信じる、信じないという選択肢をもったニュアンスに聞こえるからです。つまり、私の方に「信じ」る「方」法を模索したり、工夫したりする余地があるかのように感じられるからです。

端的に言って、衆生である人の側が「信じ」ようとして「信じ」られる、ご信心が得られるわけではありません。あくまで、聴聞を通してです。つまり、阿弥陀様の仏心が耳を通してそのまま衆生に届くから、仏心がそのまま衆生の信心になるだけです。そこに、衆生の作為は全く必要ありません。この意味でも、「信じ方」ではないことがお分かり頂けるでしょう。

ご信心の問題は浄土真宗の肝です。
一朝一夕では分からないことなので、聴聞、聴聞、また聴聞ををおすすめします。

あと、キリスト教との類似についてですが、これは私は大学院時代に研究しました。結論から言って、プロテスタンティズムとの類似はあるものの、やはり異質です。

先に述べたように、浄土真宗では衆生に信じるウェイトはありません。敢えて言えば信じさせてくださる阿弥陀様の側にこそウェイトがあります。一方、キリスト教では信じる人間の決断にウェイトが最終的に残ります。ここは決定的に違うと考えています。

2022年1月11日 7:46
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おきもち

釋 悠水(しゃくゆうすい)
浄土真宗本願寺派報恩寺住職(兵庫県三木市) 本願寺派布教使 元本願寺布...
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総理でなく厚生労働

親鸞聖人はご自身を絶対視していません。
凡夫という視点です。
本尊を神聖化して自らも神格化する教えもありましょうが、浄土真宗はそうではありません。

学者の中には大日如来の生まれ変わりが阿弥陀如来というロジックで阿弥陀如来も全知全能と敬う方もいらっしゃるかと思いますが、私はまだまだその境地には至れないです。

聴聞によって私のウエイトをゼロにしていかなければ如来の功徳の恩恵が与えられない訳でないです。
ウエイトがゼロという自覚を誰が担保するのかを考えるとゼロウエイトの実践は困難極まりないです。

大日如来には阿弥陀如来のようなはたらきがあるかもしれませんが、阿弥陀如来が大日如来の代わりを務める立場にはないと思います。

阿弥陀如来のいただき方は時代や学派によっても変わるかと思いますが、私は曼荼羅にある阿弥陀如来の位置には納得しています。
阿弥陀如来のはたらきは後方支援というか、セーフティーネットというか、コーチというか、サポーターというか、監督というか、ドクターというか、という感覚です。

私はキリスト教学をあまり知らないので、偏った回答ですいません。
私の印象だとキリスト教は迷える子羊が神に成る教えではなく神に召される教え。仏教は衆生が仏になる教え。という違いもあると理解しています。

日本の仕組みでいうと総理大臣ではなく厚生労働大臣的な立ち位置が阿弥陀如来なのかなという理解です。
(医療担当が薬師如来で福祉担当が阿弥陀如来かな?)

ちなみに浄土真宗に興味を持ってくださるなら、真宗教団連合のホームページを見てくださるとありがたいです。
憲章にある目的として、人類永遠の福祉の貢献を謳っています。

すごく砕いた言い方で申し訳ないですが個人の感想を述べました。

2022年1月11日 5:21
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おきもち

自分のことはあまり好きじゃない。 でも、だから、せめて自分だけは 自分...
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仏教における「信」とは何か

ふらしなさま

仏教は、基本的には「自灯明 法灯明」で、拠り所とするのは、自分自身の「業」とその「業」を清らかに調えていくための「法」、つまり、「仏法」ということになります。

その「仏法」を明らかになさられて、衆生を救済するおはたらきをもたれてあるのが如来となります。

では、仏教における「信」とはどのようなものであるのかと申しましたら、仏法に基づく、善因善果の因果の理を「確信」して、自らの業を清らかに調えていくということになります。

上記を基本として、次に「阿弥陀如来とは何か」と申しますと、釈尊が自らの後における衆生の導き手の(見仏と授記を託せる)お一人としてご紹介なさられた如来であり、厳しい菩薩の修行を経られて極楽浄土世界をお開きになられた如来であります。

その「(阿弥陀仏を)信じるとはどういうことか」となりますと、仏道を前へと進めていくための条件となる「見仏と授記」を頂くために、阿弥陀如来様とのご仏縁を紡ぐことにより、極楽世界へと赴き、修行のご指導を賜って自らの業を清らかに調えていくための有り難い如来のお一人であるとしての「確信」ということになります。

阿弥陀経には、「善根少ない者は極楽浄土に往生できない」とはっきりと書かれてあります。阿弥陀如来様は、しっかりと自らの業を清らかに調えていくための仏法をお持ちであり、頼りとすべき如来であるとして「確信」し、極楽浄土に往生したい者は、善根を調えて、阿弥陀如来様との仏縁を強くして、往生できるようにして参りたいものでございます。

合掌

2022年1月11日 13:56
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おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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念仏だけでOK(合格人生)

浄土宗では、口で南無阿弥陀仏を称(とな)える念仏と阿弥陀仏信仰がセットです。
念仏だけでOKなのだ、念仏できている私の生き方は合格人生なのだと、念仏するたびに安心できます。
私はキリスト教には詳しくないので、キリスト教徒が日常生活でどのような生き方をしなければならないのか知りませんが、浄土宗では念仏さえできていればOKなのだという、わかりやすい答えがあります。
たとえば、脳死が人の死かどうか、科学的な答えは私にはわかりません。
しかし、臓器移植するときは、法律的に脳死を人の死とみなしてOKなのです。
極楽浄土が本当にあるのか、念仏で往生できるのか、私には証明できません。
しかし、浄土宗という人間集団のルール上、「念仏だけでOK」と確認・合意形成が完了しているのです。
これはこれで一つの安心材料ですよね。

2022年1月11日 12:46
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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

皆様ほんとうにありがとうございました。ますます浄土真宗への興味が湧いてきました。今後も深く勉強したいと思います。また、疑問が湧いてきたら質問させてください。よろしくおねがいいたします。

「仏像・仏様・阿弥陀・観音」問答一覧

神様も仏様も、必ずしも信じられない

以前「何を信じて生きていけばいいかわからない」ということで投稿させていただき、ご回答もいただいたのですが、やや気になる点があり追加で質問させていただきたく。 自分としては誠実にあろうと生きたつもりでした。 でも、家族間でも、仕事でも、あったことをなかったことにされてみたり、なかったことをあったかのようにされてみたりで責められ、うつ病にもなり、とうとうここ1年半くらいは引きこもりや寝たきりに近い状態になってしまいました。 物の善悪も、何を信じて生きていけばいいかもわからなくなりました。 それでも回答をいただき、自分を大切にして、やはり今までの自分を信じて誠実に生きていく方が良い方向へ向かえるだろうと思えてきました。 そうする中で、もう一回本気で取り組める仕事にも出会いたいし、楽しい趣味も見つけたいし、心穏やかに落ち着いて生きていきたいとも考えています。 ただ、「神様や仏様は見ている」という言葉が回答の中にあり、少し暗い気持ちも残ってしまいました。 神様や仏様がいるのなら、どうしてここまで至る前・・・あの時に助けてくださらなかったのか。あの時、あのひどい扱いをしてきた者たちに報いを与えて下さらなかったのか。もし私が間違っているというのなら、こうなるまでにそれを教えて下さらなかったのか。何ならば、今の私を救ってくださらないのか。何が足りないというのか。 そんな汚い感情を払拭することが出来ません。「神様仏様はそういう都合のいいものではない」、もしかすると「私が以前の何かの報いを受けているだけだ」、と言われてしまうかもしれませんが・・・。 そう考えると、 『本当に今まで通り真面目に誠実に生きる方向で大丈夫なのか?』 『今までの道徳をすべて捨て去るようなこともしなくていいのか?』 『それで「誰かに都合のいい人間」でなく、自分が良い人間となり、よき人生を送れるのか?』 汚い感情と一緒に、まだそういう迷いも多少残っています。 「よき人生を送れるかはわからないけど、無理に全部変えないで、今までのものをアップデートする形で十分じゃないかな」とは思うのですが。 神様や仏様に求めすぎるような汚い思いや、そもそも神様や仏様といった存在にどう向かいあうべきなのか。そして落ち着いた心で生きるためのアドバイスをいただけますと幸いです。

有り難し有り難し 6
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薬師観音様にご挨拶した時のことについて

#お参り#仏像・仏様・阿弥陀・観音 初めて相談させて頂きます。 ありがとうございます。 観音様にご挨拶した時の不思議な体験について、何か気づきを得させて頂ければと思い投稿させていただきます。 よろしくお願いいたします。 先日、お客さんから、川見四季桜が綺麗だったよ、栗きんとんが美味しいよと教えて頂き、天気が良い日に母と出かけました。 可愛らしい桜と、綺麗に赤く染った紅葉と、綺麗な和紙の作品と色々見て、有難く大満足な1日でした。 桜と紅葉を楽しんでいたところ、川見薬師寺に続く階段を見かけて、ご挨拶しようと、急な階段でしたので慎重に登って行きました。 やっとの事で登りきると、正面少し奥に、薬師観音像が見えました。 その時、観音様は私から見て右真横を向いていましたが、一瞬で正面を向かれ、目が合いました。 明らかに目の前で起きた事への理解が追いつかず、何か見てはいけないものを見てしまったのではないかと暫く見つめ合ったまま固まってしまいました。 母に促され、観音様の目の前まで来て、先程のことは一旦離れて、感謝とご挨拶をしました。 先程感じた強い違和感は無いものの、やはり目が合い、微笑んでいるように見えました。 ふと、右真横の目線の先が気になり、確認しに行くと、お寺で飼われている、老犬がいました。 わんちゃんにも挨拶したあと、少し下った先にあるお清めの水が湧き出ている場所に行き、そちらの観音様にご挨拶した際も、やはり目が合い微笑んでいる感じがあり、また呼吸して生きている様に見えました。 その日は1日とても楽しい体験をさせて頂き、ありがとうの気持ちでいっぱいでした。 加えて、人生で初めての体験、感覚ばかりでしたので、不思議に思っております。 拙い文で申し訳ありません。 改めて、よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 6
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観音様へのお願い事について

とある観音様が祀られているお寺にお参りに行った際の事ですが。 初めて訪れたお寺でした。 ウロウロしていると案内して下さる方が出てきて、一通り大まかに説明して下さって、そしてお参りする際に、 「~いくらでもお願い事して大丈夫ですよ~」 と、確か言った気がしました。 一瞬「聞き間違えたかな?…」と思ったのですが…。 観音様のご利益を検索すると、 「…あらゆる願い事を叶える、救いの手を差し伸べる、云々…」らしく載っているのを散見できます。 ですが、参拝者がお参りする際、お賽銭(お布施)って、5円、10円、100円…とか小銭をする場合が凡そ大抵だと思います。 知識がある人なら封筒包で千円単位を包む事はあると思いますが、少数かと思います。 ※ちなみに、神社へのお参りの場合、願い事の規模の大小に依ってそれなりの金額をお賽銭すべきであろぅ、といぅ意見/考え方を聞いた事はあります。 いくらでもお願い事して大丈夫…とは言え、小銭程度で5個も10個ものお願い事するって対価に合わないんじゃ…と想像したのですが、 「Q:そもそも観音様ってお賽銭の額が小銭だから云々…に関わらず、人々の願い事を個数に拘らずに聞いてくださる仏様なのだろうか?という素朴な疑問です」 まぁ、他の仏様、如来/菩薩/明王様…の場合はどうなのか、も詳しく存じ上げていませんが。

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涅槃と菩提心を求めず。仏様との向き合い方

悩みのループに入ったときに、今まで頂戴した回答を読み直しています。 ありがとうございます。 さて、今回大げさなタイトルになりましたが、仏様と向き合う心持ちがわからなくなりご指導を賜りたく投稿いたしました。 仏教の最終目的が成仏・涅槃に入ること、また望ましいありかたとして菩提心を起こして日々を送ることだとしたら、私はそれを望んでいない、なのに写経や読経をするのは方向が違うのか考えてしまいます。 普段、自宅のお仏壇にお経をあげたり、近隣のお寺の写経会に参加しております。 そのお寺での住職様でない方の法話で「仏教的な幸せは涅槃に入ること。表現が難しいけれどお星さまになることかな。寂しく思うかもしれないけれど、それが一番の幸せ」というようなお話でした。 私は仏様になったことがないので、そこまで高尚なことはピンときません。来世があるとしたら人間に生まれ変わって、今叶わなかったことが満たされていたいです。輪廻から出られないことがそれほど不幸なのか?と思います。 菩提心につきまして。こちらの僧侶の方々や写経に伺っているご住職様は菩提心があるなあと驚きます。相手の苦痛を減らそうというお心がひしひしと感じ取れます。ゆるがぬ信仰心と強固な信念に基づいているので、悩んでいる方に寄り添えるのだなあと思います。 翻って私は人並みの親切心はあると思いますが、共感しすぎて痛い目にあうことが多く、拠り所(僧侶の方にとっての信仰心)とするものがありません。最近はやりのバウンダリーをはっきりさせて、余計なことに首をつっこむのをやめよう、自分がしっかりしていないので、他人のことはもう放っておこうと決心したばかりです。 ただ、お寺通いやお経をあげることは止めたくありません。記憶のある時からなぜか神社仏閣が好きです。 仏教的に見て望ましい行い・最終目標から逸れた心を持ちながら、どのように仏様と向き合ったら良いか、是非ご指導くださいませ。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ