高名なお坊さんへの相談に意味はあるか
私は仕事のサボり癖が抜けず長い間悩んでいます。そのため様々な方に相談させていただきいろいろなアドバイスをいただきました。結局は問題はあまり解決していませんが、こんな相談を聞いていただいた方皆に感謝しています。
さて、この悩みを一度だけお坊さんに相談させていただいたことがあります。妻が昔、評判のよいある高名な僧侶に相談をしたことがあり、その伝手で私もお話を聞いていただけることになりました。
ただし、すでにかなりご高齢であったため、そのお寺に連絡した時点では残念なことにその僧侶の方はお隠れになられていて、跡を継いだ和尚様がいらっしゃいましたので、その御方にお話を聞いていただけることになったのです。
そのこと自体は大変有り難く、またその和尚様が比較的若いとはいえ不満を覚えたわけでもないのですが、しかし、やはりモヤモヤとするものが残ってしまったのです。
はっきり言って、20年近い間に多くの人に相談しておいて未だに解決しないものは、誰に相談しようがどんないい方法だろうが到底変わらないだろうことは感じつつあります。それでも、人生経験が豊富な方や、長年多くの人の悩みに向き合って来た方であれば何かあるのではないか、という考えが頭を離れません。
自分は有能な人や名声のある人に弱いのはわかっていて、それだけでは必ずしも意味はない、と言葉では頭に入れたことがあるものの、本当の意味では身についておらず、すごい人についていきたい、という願望が抜けません。
当時はありませんでしたが、このウェブサイトではたくさんの僧侶の方が様々な悩みにご回答されていて有り難く思います。私自身は仏教の業界にはまったく疎いのでどなたが高名か、などといったことはわかりませんが、しかし仮に評判のよい高名な僧侶の方がいたとして、そのような御方に相談することは意味があることと思えますでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「高名な僧侶」の問題?
こんにちは。
「評判のよい高名な僧侶」ではない私の回答が、果たしてあなたに資することができるかどうかは分かりませんが、試みに一つ回答してみましょう。
まず、なぜあなたは「高名な」から入るのでしょう。
あなたは、「有能な人や名声のある人に弱い」という自覚はあるようです。ただ、それは「弱い」というよりも、正確には「高名」などの他者からの下馬評を自己判断よりも優先しているということです。つまり、その人自身を見極める見識が自分自身に不足している、またはあなた自身の判断基準が定まっていない、ということを意味しているのだと思います。
評判のお店だから美味しいのだろう(評判でなければ美味しくなかろう)。
有名大学の先生だから言っていることは間違いない(そうでない人の言は聞けない)。
例えて言うなら、そういうことです。
あなたは、他者(ハスノハの回答僧)に「高名な」他者のことを尋ねている。
そして、その「高名な」他者は、私に「意味」をくれるのだろうかと問うている。
このハスノハでの回答上の経験から言います。
「意味」を多くの人が問います。
生きる意味、夫婦である意味など。
それは、分からないから問うているだと思います。
しかし、問うている本人がそれを「意味」あるものとして受け止めるかは、その当人の問題です。回答者は「意味」を質問者と共に考え、示唆することは出来る。しかし、本人がその「意味」を肯定的に受け止めていかない所に「意味」は「意味」として成就しないのです。
お経の中に、「往き易くして人なし」と説かれます。
極楽浄土の門は阿弥陀如来様によって広く全ての人に開かれているけれども、実際に往く人は稀であるということです。それは、阿弥陀如来様の、仏様の側の力不足だからなのか。いや違う、仏様の心を受け付けない人間の側に常に原因があるから、ということを説いています。
あなたの抱えている問題が解決しないのは、「高名な僧侶」の問題ですか。
問題解決の可否を、他者のレビューに任せるのですか。
「20年近い間に多くの人に相談」した中に既に答えはあったのではないですか。
あなたにとってぴったりだと感じるお坊様かどうか
こんにちは。
「投機」という言葉があります。現在は株式などで機会を捉えて儲けを得ようとする意味で使われていますが、もともとは仏教の禅宗の言葉なのだそうです。
「機」は、仏教語の「気根」の事で、ひとりひとりの個性や能力をいいます。「投」は、「ぴたりと合う」という意味です。
つまり、師の教えと修行僧の個性や能力がぴたりと合う、という意味で使われていました。
お釈迦様の説法は「対機説法」といって、その人の特性や能力に合わせたお話をするということです。
相談するお坊様が高名であるかよりも、あなたにとってぴったりだと感じるお坊様かどうかという事の方が大切かと思います。高名であることと、あなたにぴったりくるかどうかは別問題でしょう。
あなたがhasunohaの問答を読んでみて、相性が良さそうと思ったお坊様に個別相談をお願いするのも良いし、あなたの相談したい内容を、次の質問で書いてみて、様々なお坊様から回答をもらってみるのも良いでしょう。
最後に、もうひとつ大切なのは、最終的に行動し解決するのはあなた自身だということです。お坊様は解決のための糸口や考え方は示してくれますが、あなたがそれを実践しなければ解決にはなりません。それはお医者さんに行って「今日はゆっくり休んでお薬を飲んでください」と言われたのに、夜遅くまで起きて薬を飲まない事と等しいです。
「高名」にも「僧侶」にも、価値も意味もないものと存じます。
数年前、うちにご相談にきたご婦人が、御本尊さまに手を合わせたら
「おっしょさん、すまね!ほどけさんさ手あわせたら用事済んだわ」
といってニコニコとお帰りになられました。有難いなあと感じた
出来事です。
高名も無名も和尚であってもお掃除に来てくれるおじいさんであっても
すべてに価値と意味を見出すことは出来るものです。
たとえあなたにとって全く理解のできないお話であっても。
そこに価値と意味を見つけるのは、あなた自身でしかないからです。
うちの和尚の話をきかなくても、御本尊さんから「声なき説法」を
聴かされ、ニコニコと帰っていったご婦人はまさに「見つけた」のだと
思うのです。
わたしは臨済宗の和尚ですが、曹洞宗の道元禅師のお言葉に大好きなものが
あります。
「峰のいろ 谷のひびきも 皆ながら 我が釈迦牟尼の 声と姿と」
どうぞ、日常のこの世界中の「声なき説法」に耳をかたむけて
いただけたら幸いです。
自分で自分自身をコントロールすることは、本当に難しいことです
自分自身のことなのに、なかなか思い通りにはなってくれない。
自分自身のことなので、何でも自分の思い通りになっても良さそうですが、実は、残念なことに、人間というものは、そもそもそのような仕組みになっていないです。
ダイエットをしようと思えば思うほど、食べ物が気になってしかたなくなり、
タバコや賭け事など、やめようと思えば思うほどしたくなってしまう。
勉強をしなければいけないと思うほど、サボりたくなってしまう。
一説には、何かをしようと思えば思うほど、真逆の方向へ1.5倍の力が働くといわれるほど、私たちは誰しも、自分自身をコントロールできない苦しみを本質的に抱えてしまっている存在です。
そのような仕組みであるのが私たち人間ですから、相談者さまが、何とか強制的にでも自分を変えようとするほど、実はより苦しんでしまうことになりかねませんし、また思考される能力が高いほど、より思い通りにならない苦しさが強くなってしまうのだと思います。
お釈迦さまの教えでは、「一切皆苦」といって、すべてのものは皆、苦しみだ と説いていますが、まさしく、思い通りにならない自分自身だからこそです。
そして自分の中に、思い通りにならない「もう一人の自分」がいることにまず気づくことこそ、お釈迦さまの教えの大きなテーマです。
ご質問の「相談することの意味」については、
「もう一人の自分」が思い通りにならない時に、神頼み、仏頼み、高名な僧侶頼みをしようとすることは、ある意味、自然なことだと思います。「自分でやろうとすると反発する」ことが無い分だけ、心のスイッチが入りやすいはずです。信じすぎたり、依存してしまわなければ、その分の意味や意義はありうると思います。
『内なる他人とも言える「もう一人の自分」との付き合い方』は、
相談者さまだけでなく、私を含め全ての人に共通する本質的な課題だと思っています。無理やりコントロールしようとするのではなく、良好な人間関係を作り上げていくつもりで付き合っていくことが大切なのではないでしょうか。
質問者からのお礼
皆様ご回答誠にありがとうございます。
おかげさまでだいぶ腑に落ちました。結局は自分で意味を見出すしかなく、相談相手の評価を他人任せにしていては、自分で納得してお言葉を受け止めたことにはならない。そんなままではご助言を実践しても表面上のことにとどまってしまい前に進まないのかなと、そういったことを感じました。
私自身には人を見る目はありませんので、私がこれまで出会った方々の中に相性のよい人生の師と呼べるような人がおそらく何人もいたのでしょうが、たぶん、私がそのことを軽んじていたから、結局はうまくいかないのでしょう。
少なくとも高名な御方からのみ得られるようなものは、たぶんないのだろう、とすっきりしました。これからの人生で出会える人はきっととても限られていますが、それら一つ一つを大切にしていきたいと思います。