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死にたいと言われた時の対応について

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有り難し有り難し 22

はじめまして。
よろしくお願いします。

私の父が、去年10月にステージ4余命半年の癌と診断されました。

父には、余命のことは伝えてません。

まだ寝たきりではないですが、少し痛みが出てきたので医療用麻薬を飲んで、緩和ケアをしています。

昨日、父が急に
「気持ちが沈んでるよ。鬱っぽいのか。死にたいよ。」
と、言いました。

話すことに疲れると
「話しかけるな」と怒ります。

私は、何と言ったらいいのでしょうか。

何でも言い合える親子関係ではなく、すぐに怒る父に私は萎縮してしまい声が出なくなります。
機嫌を損ねないように、緊張してしまいます。

病気になってからは、頻繁に会っていますが、それまでは疎遠でした。

それでも、父に少しでも長生きしてほしいです。
父のお兄さんも癌で自殺していることもあり、とても心配です。

何と言葉を掛けたらいいでしょうか。
よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

その設定そのものを無くす。

これは大事な視点です。
父は余命あとこのぐらいだから…、という先立つ設定は明るい会話、楽しい会話、家族の親しい間の会話には一切不要です。
ケンカ状態にある人間同士でも、そのケンカの続きをすれば火に油。人間は24時間の中で可能であれば24時間すべて心地よい状態で過ごすべきですし、その教えこそが人類最高の教えだと思います。もちろん問題があって、それを解決すべきことも大切です。ですが、そうしている間限られた寿命=あなたがお父さんと共に過ごす時間は減っていく。だとしたら優先選択すべき順位を変える。つまらんことやかなしいこと、暗くなることを前提条件にしたり、そっちに引っ張られる私を捨ててしまうことです。今日三時間後に死んでいく人間がいたとしても、その時にまで笑顔で過ごすことができたならそれは最後の最後まで負の想念に負けることなく、明るく笑顔で生き抜いたということ。
あなたもそうするべきですよ。
普通でいいのです。
普通に話していれば、お互いに変な設定が無くなる。

そして「過ごす」ということに重きを置いてみましょう。
一緒にいるだけで👪家族。
喋らんでも人間はお互いが真実の体減と真実の体現。
父親と娘という関係、間柄。
喋るのが辛そうだったらそれはその時に対処、対応。今を今の通りにゆかせる。今まで聞いたことのなかった気になることがあれば聞いておく。
コロナでただでさえ全国・全世界レベルで親子間で直接会話すら難しい世の中です。
後悔のないように「ただともにすごす」というだけでも言葉なき会話・対話です。
台本やセリフなんてないからこそ家族の会話とは家族なのです。
そこで人間はこの世界の一人、一存在として、今日のこの日、今できることの最高最上を務めていけばいいのです。できるかぎりで。
お義父さんを救ってあげたい、助けてあげたいというのはあなたの衆生。
六祖慧能禅師は『六祖檀経』の中で自身の衆生は無辺なれど度せん(すくわん・いやさん・たすけん・報いん・やさしくする)ことを誓願す、と。
あなたは時間の中でお父さんに「ほんとうはどうしてあげたい」ですか?どのように度してあげたいですか?
それをあなたができることをしてあげることです。そして、お義父さんが望むことがあればそれをしてあげることです。向かう先は生きていても死んでいてもお互いにとってこの上なく最上の心、最高の精神です。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

私なら

○昨日、父が急に
「気持ちが沈んでるよ。鬱っぽいのか。死にたいよ。」
と、言いました。

→そっか。
。。。
だいぶ痛そうやね。。
。。
まあ、お迎え来る時は来ると思うわー。

○話すことに疲れると
「話しかけるな」と怒ります。

わかったよ。と、ただ居るだけ。
(椅子に座って、スマホみながら、時に居眠りして、30分ほどしたら、帰る。また来るわ。と言って帰る。)

+++
ガンの痛みは、かなり痛いらしいです。
うちも家族の最期をみたときは、なかなかでした。

こちらに受け止めてもらうとか相手のことを考える余裕はもてません。
相手が己の人生全ての感情を込めて言葉を発してきます。

家族だから全部受け止めなきゃいけないでなく、私ができるできないは別として、吐き出した方がいいものは声に出してもらう。
それも綺麗事じゃない、生きた証です。

あとは、どんな対話してたかなー。

(声かけ言葉の一例)
・顔だけ見てすぐ帰るね。
・弱音は別にカッコ悪くないし、吐いていいと思うよ。ばあちゃんもそうやったし、私もそうなったらわめくと思うから。。
・こっちも、受け止めきれなくなったらエスケープとか、涙出るかもしれんし。
・死にたいくらい辛いのはわかった。
生きてる証。
・死に急がなくてもいつ死のうが骨は拾う。
・欲しいものだけ教えて?
・カツサンド?メイバランス?
・背中ここは痛くないか?
・酸素まだ大丈夫やわ。
・うん、わかったよ。
・そやなー。そっか。
(モルヒネとか緩和で打つようになると、寝言というか聞き取れない言葉も出てくることもあります)
・シャレにならない前に言い残したいことがあれば録るよ。

参考になれば。。

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hasunohaに出会えた私は幸せ者です。カニとおろし蕎麦と水ようかんが美味しい地方の町のお寺にいます。人混みは苦手、都会のイルミネーションやサイネージはまぶしすぎる。だけど、ここhasunohaでの対話があるから孤独じゃない。ありがとう。
社会福祉士、公認心理師として社会では働いてます。事業や組織を背負うと言えないこともあるけど、仏教を背負うと語る内容も変わります。悩みがなくても話してみたいときは相談ください

質問者からのお礼

ありがとうございました。
穏やかな気持ちで過ごせるように、そばにいようと思います。

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