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不治の病を抱えながら生きていく意味

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有り難し有り難し 12

初めて相談させていただきます。

全てを我慢、我慢、我慢しながら、生きていく意味はあるのでしょうか?

私は現在20代後半で、入院中の身です。
10代前半から絶対に治らない不治の病に侵され、治療と入退院を繰り返してきました。
私の病気は国の難病に指定されているもので、全身の筋力が落ちていずれは寝たきりになるものです。

この病気の為に、好きに運動する事も出来ず、好きな食べ物を食べる事もできず、特に10代の頃は周りの友人が好きに過ごしている中、ひたすら我慢の毎日でした。

20代になり、病気も悪化し、今後の人生に楽しみを全く見出せない状態です。

何故、私はこのような不自由な身体で生まれたのでしょう?
何故、周りの一般の方のように当たり前に好きな物を食べ、好きなように運動できるような、当たり前の幸せが許されないのでしょう…?

正直、もう生きる希望がありません。このまま絶対に治らない病気と付き合って生きていくのは心が限界です…

そして、そんな身体に生まれた自分が情けないし大嫌いです。毎日毎日、自分を殺してやりたいと思うくらい憎んでいます。

許されるなら、安楽死を望みたいです。

こんなドス黒い気持ちを誰にも打ち明ける事ができず、毎日自問自答しては絶望して泣いてます。

私には、こんな身体の状態でなお生きて行く理由が、意味が分かりません…
早く、一刻も早く死にたいです。

2022年2月15日 20:28

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏教的「人生の意味」

こんにちは。

「ドス黒い気持ちを誰にも打ち明ける事ができず、毎日自問自答しては絶望して泣いて」いる、と書かれています。その「打ち明け」難い事を、ここに話してくれたのですね。このハスノハという場、及び回答僧を信頼してくれたからであろう、と有り難く思います。

これは、以前に他のケースで回答した問答です。
「アトピーで狂った人生について」
https://hasunoha.jp/questions/55418

その回答の概略はこうです。
病気の有無に関わらず、幸せとは何か、「生きる意味」とは、古今東西に共通した普遍的な問いである。質問者さんは「普通の方々」と比べて「アトピーに振り回されてぐしゃぐしゃになっている自分の人生は一体何なのでしょう」と、他人との比較の上での「幸せ」「人生」を考えている。

人間だからこそ、その心境に無理はない。しかし、幸せ、「人生」とは、決して誰かとの比較の上には決して成り立たない。何故ならば、それは不安定で、相対的な「意味」に過ぎないものだから。コロナを始め社会情勢の変化、人間関係の変化、身近な人の病、死等々によって比較の順位は常に相対的なものとして入れ替わるのだから。

だから、仏教は決して色褪せることのない、不動の拠り所を自分の幸せ、「人生」にする。南無、とは拠り所を、自分にではなく仏様にする表れである。
南無阿弥陀仏
南無釈迦牟尼仏
南無大師遍照金剛

比較する自分、比較した誰かを拠り所にする限り幸せ、「人生の意味」は常に揺れ動く。比較しないでもいい、どんな事があっても仏様が私と生きてくださっている。それだけで「人生の意味」の問題は、再び問う必要がない。あなたの病が小康状態のときも、重篤なときも仏様とともにある「人生の意味」に変更はないのです。

こう回答しました。

しかし、その返信では仏教的「人生の意味」を受け入れよう、という意思は今の所ないということでした。あくまで、自分の考えを中心として「人生の意味」を考えていく、とのことでした。

一回の回答で、仏教的「生きる意味」が分かるべき、直ぐに仏教を学びなさいとは言いません。しかし、そこに沿うていく意思が少しでもご自身の中であるのか、一度確認してみてください。

仏教には、一時的ななぐさめでは終わらない深さがあります。
今後の選択は、ご自身で決めてください(字数制限)

2022年2月16日 8:35
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