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自然現象にイライラ

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有り難し有り難し 10

自然現象に毎日イライラします。
客観的に見ると怒っても仕方ない馬鹿げたことだとわかっています。
しかし辛い毎日を繰り返していると、すごくくだらない事が更にキツさを増します。
自然現象なのでムカついても仕方ないのですが、疲れてきて休みたい時に限って嫌な状態になったりするのでまるで見えない誰かが笑っていてあえて仕掛けて楽しんでいる気がします。
それでも毎日動かなければならないので重たい体を起こして日々を繰り返しています。

この内容でわかりにくいかもしれませんが、くだらないことを気にせず、毎日を楽しく乗り越えられるアドバイスがありましたらお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自然を相手に腹を立てるのは非自然的な「わたくし」ルール

農家で人間関係がお嫌いな方がこのように言っておりました。
「畑仕事ってのは、自然を相手にすることだから腹が立たない。
ただ事務仕事とか人とかかわることはつい腹を立てちまう。」と。
私は本山の修行を終えて寺の庭はきの毎日でした。
自然を大事にするお寺なので境内中木に囲まれています。
寅さんに出てくるお坊さんや木のないようなお寺だったらほうき一本でまかなえるもんですが、当然はそんなもんじゃ庭はきがとても終わりません。
一日2時間3時間庭掃きしても終わらない。同級生の歯医者さんは当時(30代)月に80万稼ぐという。私は一日中、非生産的なことを何時間もやって一体、なにをやっているのか?と。庭掃きでノイローゼになるかと思うぐらいな時期もありました。
( ˘ω˘ )活路を求めました。
深い禅定の中、私はひらめきました。( ゚Д゚)クワッ!💡
現在は二時間かけていた庭掃きが10分ほどで終わります。
その方法は…何か。
原チャリでガソリン式のブロワーを片手に羽生結弦のように境内を走り回っております。♪テーマソング「パリの散歩道(ゲイリー・ムーア)」
坊さんがバイクに乗りながら境内をブロワー片手に走り回る映像は何とも言えない稀有なお姿です。参詣客が面白くなさそうな顔で見る人がありますが、一度でもいいから2時間かけて庭掃きしてみろと思いますね。笑
そろそろテレ東の珍百景に登録されてもいいはずなのですが、なかなか取材に来ません。
さて、自然を相手に腹が立つという気持ちは私も同じでした。
ですが、それは自然相手に腹が立つのではないのです。
自然相手に腹を立てても相手がいません。
つまり、それは内なる思いで自分に腹を立てている姿だったのです。
先立てているわたくしルールに気づくといいでしょう。
自分が先にこうなってほしいという思いが強いからマイルールに反することに腹が立ってしまうのでしょう。
どんなにおいしい料理、名曲、ありがたい話であっても「先に自分が立っている人」はそのおいしさや素晴らしさが伝わりません。
自分の先立つ思いがあれこれと立ち上がってしまうと人は誰が何を言っても根本的に解決されません。マイルール、自分ルール、自我ルール、エゴのルールを意識して、それをその都度持ち込まないようにすることです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下覚元 様へ 

 コメントありがとうございました。

確かに《こうなってほしい》という強い願望は疲れる毎日の中、毎瞬あります。
しかし、【無】の状態の時にも嫌な現象は起こるので『なぜなの!』とどっと疲れます★

マイルールなどを意識して、それをその都度持ち込まないようにすること。は結構難しいことに思えます。
そこの乗り越え方が知りたいです。

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