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マインドフルネスについて

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有り難し有り難し 18

瞑想を2週間ほど前から朝の日課にしています。欲を少しでも手放せたらと思い、始めました。

そして、昨日仕事中にふっと目の前の仕事に全意識が向いている心地よさを体験しました。これがマインドフルネス?と思いました。15分くらいしか持ちませんでしたが。

どうしても自分で自分を苦しい状態にしてしまうので、どうしたらもう少し楽に生きれるだろうと思い、このマインドフルネス状態が長く続けばいいのでは?と考えています。

そして、大人になると生活の7割くらいが仕事なので、仕事中にマインドフルネス状態が続けば毎日がもう少し楽になると考えました。

しかし、仕事内容が慣れているものであったり、どう進めるか想像つくものであればマインドフルネス状態になりやすいと思ったのですが、仕事内容によっては難問にぶつかったり、やったことないことをやらないといけないことだってあります。クリエイティブ系の職種のため、アイディア出しなどはいつも苦しいんでいます。今思うと、まだこの職種の経験も浅いこともあり、8割ほどの仕事内容にいつも苦しめられています。難問にぶつかった場合もただ難問に向き合うだけでマインドフルネスなのでしょうか。

マインドフルネスについては本などを読んで、自分なりに解釈しているところもあるので間違いがあれば訂正していただきたいです。

仕事中あっちこっち気持ちが散らかるので、マインドフルネスの実践ができたらなと思います。

2022年3月8日 8:35

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

心にスペースを設けるような感じです

菜の花 様 相談ありがとうございます。

マインドフルネスは、いろんな方法がありますね。
でも、基本は、今ここに、ただ集中していられることですね。
(言葉で表現するのは難しいですね)
菜の花さんも実践しておられますね。
素晴らしいと思います。
で、集中が途切れたり、雑念が入ったり、いろいろ惑わされたりするのは、
誰でもあります。心配いりませんし、完璧にできる人なんていません。
だから、ただ難問に向き合うだけでも問題はありません。でも難問の場合は、すぐに気が散ってしまいますし、悩まされてしまいます。まさに「あっちこっち気持ちが散らかる」ですよね。
ですので、そんな時は、
惑わされてもいいと思い、
優しく自分を取り扱い
優しく自分の呼吸に意識を戻していきましょう。
自分のゆったりとした呼吸に、出る息、入る息に、意識の注意を
優しく戻すことで、悩ましいことを悩ましいこととしてそのまま
受け入れる準備が整っていけると思います。
心にスペースを設けるような感じです。
あとは繰り返し実践して、慣れていくことだと思います。

アドバイスになったでしょうか?
必要なことだけ取り入れてくださいね。
難しければ、何度でもご相談ください。
一礼

追申:お礼メッセージありがとうございました。
当方、コンパッション(慈悲)の瞑想のスクリプト(誘導文)を多少用意しております。よろしければお尋ねください。
ご縁に感謝申し上げます。再礼

2022年3月8日 19:05
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有り難し
おきもち

お寺の法務(法事などのご先祖の供養)と 唱題行・写経・法話・カウンセリン...
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仏教の止観とマインドフルネス

菜の花さま

仏教の瞑想や坐禅をマインドフルネスと混同なさられている方もいらっしゃいますが、色々と似て非なるところもございます。

仏教の場合は、止と観の実践となり、その具体的な方法論としては、中国・日本の仏教の場合であれば、天台摩訶止観、チベット仏教の場合であれば、ツォンカパ大師の菩提道次第論・止観の章に説かれてあるものとなります。

確かにマインドフルネスも、ティク・ナット・ハン師により仏教的なものとして認識されていますが、それもティク・ナット・ハン師による独特な華厳禅的な要素のあるもので、伝統的な仏教における止観の実践とはやや異なっているところがあることには十分に注意が必要でございます。

世間で流布されているマインドフルネスの解説本も、止観行とは違うところが多いため、本当の止観行の実践を学ばれたいとなりましたら、天台摩訶止観もお勧めですが、ツォンカパ大師の菩提道次第論・止観の章が役立つものになるのではないだろうかと存じます。

いずれにしても、仏教の止観行は、「空」をいかにして悟っていくべきかというところに重点があり、マインドフルネスとはその点で大きな違いがあるものとなります。

合掌

2022年3月8日 10:24
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有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

eishun様
ご回答ありがとうございます。止観行は知りませんでした。調べてみました。少しずつ学んでいきたいです。

釋 孝修様
ご回答ありがとうございます。説明がとてもわかりやすく、実践してみたいと思いました。また、わからなくなったら相談させてください。

「仏教における瞑想」問答一覧

うつ病の中でも利他の心を持つためには

5年ほど心の病に苦しんでおります。最初は適応障害という診断でしたが症状が悪化し、3年前にうつ病と診断されました。 それでも昨年から始めた漢方の治療やカウンセリング等の効果で体調は良化しており、検査の数値も改善してきています。 しかしながら「ものを考える余裕」が生まれたこともあってか、生き方に対する苦悩は深まるばかりです。 うつ病に向き合う手がかりとして、宗教・哲学・心理学など多くの本に触れているのですが、その多くで「他者に関心を持つこと」「他者と関わること」「他者のためにはたらくこと」が幸せへの道として説かれていました。仏教においても、「利他」は大切な考えだと思います。 しかし、今の私には「他者のためにはたらくこと」はおろか、「他者と関わること」も考えられません。他者とつながりを持つことを恐ろしいと感じてしまいますし、他者のことを考える余力自体も不足しているように思われます。毎日念仏をお唱えするときも、自分の身体のことや心のことばかりを考えてしまいます。 自分でも「利他の心」を持てたらとは思うのですが、負のループに入ってしまっているような気がしております。 勿論、日々の中で「他者を傷つけないように」「他者を不快にさせないように」と心がけているつもりではおりますが、それだけで良いのか、と自問自答してしまいます。 どのような心がけで日々を過ごせば良いのか、ご助言を賜りたく思います。どうぞ、よろしくお願いいたします。

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瞑想とは

ブッダは入滅する際に深い瞑想状態に入りながら入滅したと見ました。 私も肉体や精神などが極限の苦痛に達した際や死ぬ際には瞑想を使用したいとおもっておりますが、そこまで深い瞑想をするには相当な瞑想の日々の熟練が必要かと思っております。 ところが精神疾患を持つものが瞑想をするとどうやら副作用が生じ、むしろ悪影響が発生することがわかりました。 以下質問となります: この矛盾は何でしょうか?座禅・瞑想とは人類全てが実践できる安全なメンタルケアでなければならず、そのため仏教修行の多くの部分を座禅・瞑想に使用するのではないのでしょうか。 それとも仏教の座禅・瞑想は修行の一部にすぎずそれが全てではないということでしょうか。 有名なキサーゴータミーの物語では明らかに精神疾患状態にある婦人を救っているような記述がありますが、これはどのようなプロセスを経て「治して」、「さらに悟りにまで到達した」のでしょうか。 個人的に思うのはまず前提として仏道の実践と修行者の身の回りの環境を整えてから瞑想を熟練していくのだと思いますが、その「環境の充実」の基準とはどこから情報を引っ張ってくれば良いのでしょうか。 よろしければ真なるお言葉をくださいませ。なければご対応不要です。よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 16
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ