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過去の罪に強い自己嫌悪を覚える

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私は大分前にある罪を犯してしまいました(罪の内容はプロフィール欄に記載させていただきました)。

その後「社会の役に立つことをしよう」と思い、ボランティア活動に勤しんだり、経済的に余裕があれば寄付・寄贈したりしながら少しずつではありますが罪滅ぼししております。また、若い頃とは異なり、ちょっとしたズルをしようとしても、完全に自制できるようになりましたし、他人に優しく戒めることもできるようになりました。  

ただ、ここ数日、断続的に強い罪悪感と自己嫌悪を覚えるようになりました。後悔の念が止まりません。自分自身が情けないです。
どのように自分自身と向き合えばいいでしょうか。
宜しくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

不断の善導精神 人は菩提心より生まれ菩提心が人間存在そのもの

「償いとして善行を積む」ということを捨てるべき時期です。
そこから解放されて、ただ善行の為に善をなす。
条件付けなど不要です。
償いのための善行という事から解脱してただこの世の善行・徳行の少ないことを嘆き、やらぬ善行よりも売名でもなくただただ善行の為に善行をなす。
もし、この世に悪をなす人が半分、善をなす人が半分だとします。悪が増えれば余は乱れる。
或いは、世の人々の人生における行いのすべて半分がよい行い、半分が自己中心的な悪行だと致します。
もちろん、何をもって善となすか悪となすかはここでは問いません。
いずれにせよ善行が行われなければ人の心は暗く、あなたの心も暗く、世も暗いのです。
昨今の世界情勢をご覧いただければどう考えても「おいおい、それは人としてやってはならぬことだぞ?」ということばかり。
悪意・悪事が大手をふるって行われている状況です。悪事ばかりでは人の心も毒され社会全体が毒されます。
人体内部ですら悪玉菌・病原菌が盛んになれば、体調も崩します。理屈抜きに体に悪いことは悪いわけです。
精神状態であってもよからぬことを考える時間が長ければ心は病む。
だからこそ、善行や善玉菌を増殖させる活動に終わりはありません。
仏菩薩、老婆親切心おばあちゃんがやることなすこと行く先々に花を咲かせるようにあたりまえの活動として「ただ=只管(意義や条件付けを求めるでなしに)」行うべきを行う。
人の行いというものはそこで思うだけではだめです。行いが生まれなければ表の世界に「あらわ(現・顕)れる」ことはありません。
伝説の謎のフィリピン人女性の名言に「愛というものはいくら愛を表現したつもりでも、その人に愛という形でキャッチされ愛として届かなければそこに愛は生まれないのヨ」という言葉があります。(ルーツ不明)
善行も同じです。罪滅ぼしも同じです。
それが善きこととして作用されるように行う。
そこでおこなわれることの本質は「作用」だからです。
その作用がどちらに向けるか。良かれと思って高齢者に席を譲った結果が「👴ワシャまだ立っていられるわ!リハビリ中ぢゃ!」と口論になったら善意が善意として「作用」しない「完結」しないものです。それでも信念をもってなすべき善をなす。一切を善導せんとの精神で、自分も救われるよう相手もよい心が生ずるように行うことで、後悔の念も浄化されることでしょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

このたびは実に丁寧なご回答、ありがとうございました。予想以上に早くご回答いただき、驚いております。
中でも「善行の為に善をなす」というお言葉に強い感銘を受けました。「罪滅ぼしのためにあれやこれを、やっています」などと言っている時点で未熟者ですね。ただ、初めのステップとして、償いのために善行を積んできたこと自体は間違いではないのですよね?
これからは、信念を持って善を周りに広めていけるよう、日々の生活を営んでまいりたいと思っております。
罪悪感や自己嫌悪、後悔の念が急に消え去る訳ではありませんが、かなり前向きな気持ちにはなりました。またご教示いただけますと嬉しく思います。
ありがとうございました。

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