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天部の仏様について

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有り難し有り難し 20

いつもお世話になっております。今回もご相談させてください。
ここ一年くらい前から、本を読んで仏教や御真言の勉強をしています。勉強をしていくうちにいろいろな疑問があるのですが、特に気になることがあります。
歓喜天様と荼枳尼天様についてなのですが、いくつかの本に「気難しい」「正しい信仰しないと祟られる」「真言をちょっとでも間違えると駄目だ」というような記述がありました。
他にも弁財天様は嫉妬深いからカップルでお参りするとよくないとか書いている物もあります。
私はお寺や神社を巡るのを趣味としているのですが、こういう話を聞いてしまうと、歓喜天様や荼枳尼天様にお会いしたときに、手を合わせるのが怖くなります。
また、お経についても勉強していて、参拝させていただいたときに唱えるようにしているのですが、間違って唱えてしまうことがあり、その後、大きな過ちを犯してしまったような気分になることがあるのです。
歓喜天様や荼枳尼天様・弁財天様の仏像にいろいろな所でお会いしたことがあるのですが、どのお方もお優しい顔をされていて、とてもそんな存在に見えません。なので、私自身は仏様が祟りを起こすようなことはないと思っています。
しかし、心のどこかで恐怖が拭えないのです。
そこで質問ですが、なぜ天部の仏様の中にはこういう風に言われてしまう仏様がいるのでしょうか?
専門家であるお坊さま方ならばよい答えを聞かせていただけると思い相談させていただきました。
ご回答宜しくお願い致します。

2022年5月29日 23:04

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ほとけさまの花言葉 それぞれが保持する導きがある

天や諸天善神、菩薩、仏とはそれぞれみな人間の内なる精神のはたらきという面もあるのです。
「気難しい」「正しい信仰しないと祟られる」「真言をちょっとでも間違えると駄目だ」というのは、人間がそのような方向に向かうと人間本来の優れた功徳・優れた作用から道外れになるということ。
戒律や仏法の道理というものもみなそうでしょう。
たとえば不殺生戒。
人を傷つけたり、生命をぞんざいにするようなことをすれば心が乱れる。残酷で猟奇的、唯物的になる。自分たちのためであれば他の生命も傷つけて構わないという戦争国家のような生命を尊重しない偏狭思想のようなドライな人間性になる。
不偸盗戒…自分のものではないものを不正に手にすれば持ち主に嫌な思いをさせる。罪悪感が生じる。繰り返せば窃盗団と変わらない悪びれない心理になる。
不邪淫戒…男女のあるべき道を外れれば、人としての信用を失う。他人の家庭を壊すような品性が下劣になる。まさに、そういう人間とは❝触らぬ神に祟りなし❞でしょう。
そういう人と関わるべきではないのと同じように、そういう人を低俗に向かわせる作用や働きとかかわるべきではないからこその、仏、菩薩、諸天善神のもつ「導き」「導く働き」なのです。
そのより良い方向へ導く、善導の精神を仏教では菩提心という。
菩提心は菩提心によって共鳴をする。
だから、こちらに菩提心が無ければ、その神様、諸天善神のもつ本来の功徳の声が聞こえなくなる。曲がった見方、うがったものの見方になってしまうのです。
よって、これをきっかけに読者のみなさまは菩提心をもってください。
菩提心とは人間をこの上ない心へと導く精神作用であり、仏、如来、菩薩の仏言葉と言ってもいいでしょう。お釈迦さまも歴代の祖師様もみな菩提心をおこして(発心)立派な活動体となられました。人は菩提心から生まれ、菩提心によって共鳴するのです。あらゆる諸仏諸菩薩の花言葉ならぬ仏言葉は菩提心。
菩提心があれば、優しい表情も導きと悟り、憤怒の険しい表情も人をして悪事へ向かわせないための戒め、導きの作用ということが分かり、その尊さにおのずから手が合わさることでしょう。
これをご覧になられた方があらためて大きな菩提心をおこし、広く世の修行を助け、自己の悪しき心や煩悩を断ち、仏の教えを導きとなして仏道を成就せられますことを切に願い記させていただきます。

2022年5月30日 7:32
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有り難し
おきもち

親しみやすい天部に人情を投影

仏(如来)や阿羅漢は悟っているので怒り・嫉妬などの煩悩がありませんか、天部はまだ悟っていない(厳密には仏ではない)ので、煩悩があると思われます。
だからこそ、天部は人間味あふれる親しみやすい存在かもしれません。
また、天部信仰が民間に浸透する中で、仏教教義とは離れた民間信仰的な要素も強くなり、弁天様が焼きもちをやくなど、私達人間側の心情を投影した憶測が言い伝えとして定着してきたのかもしれませんね。
仏教ではありませんが、聖書の神様も嫉妬する神だと言われます。だから他の神様を信仰したらゴッド(アラー)は怒るはずだと考える人もいる。
弁天様の場合、仏教を守る神様だとしたら、怒りや嫉妬は煩悩だとご存じのはずですが。
まぁ、とにかく天部は私達民衆にとって親しみやすい存在だということではないでしょうか。

2022年5月30日 12:22
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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

丹下様、ご回答ありがとうございます。お礼が遅くなり申し訳ありません。
全文拝読させていただきました。読むにつれ、過去の自分の過ち、そしてあの頃の悪い心を思い出します。過去には戻れませんが、今こうして仏様や神様と出会えたことに感謝して、生きている奇跡を大切に、そして仏様や神様から教えていただいた菩提心を忘れずに日々心がけ、一日一日を大切に生きていこうと思います。
天部の仏様にも人間と同じ事情があることも理解できました。これからは迷わず怖がらず、感謝の気持ちを込めて手を合わせてまいります。
ご回答いただきありがとうございました。

願誉様、前回に続き今回もご回答ありがとうございます。お礼が遅くなり申し訳ありません。
全文拝読させていただきました。本には載っていない知識を教えていただき嬉しいです。私もまだまだ勉強不足でした。ですが、疑問が解決しとてもスッキリしました。これからもお寺に参拝した時、天部の仏様がいらっしゃったら怖がるのではなく感謝の気持ちを込めて手を合わてまいります。
ご回答ありがとうございました。

「仏像・仏様・阿弥陀・観音」問答一覧

神様も仏様も、必ずしも信じられない

以前「何を信じて生きていけばいいかわからない」ということで投稿させていただき、ご回答もいただいたのですが、やや気になる点があり追加で質問させていただきたく。 自分としては誠実にあろうと生きたつもりでした。 でも、家族間でも、仕事でも、あったことをなかったことにされてみたり、なかったことをあったかのようにされてみたりで責められ、うつ病にもなり、とうとうここ1年半くらいは引きこもりや寝たきりに近い状態になってしまいました。 物の善悪も、何を信じて生きていけばいいかもわからなくなりました。 それでも回答をいただき、自分を大切にして、やはり今までの自分を信じて誠実に生きていく方が良い方向へ向かえるだろうと思えてきました。 そうする中で、もう一回本気で取り組める仕事にも出会いたいし、楽しい趣味も見つけたいし、心穏やかに落ち着いて生きていきたいとも考えています。 ただ、「神様や仏様は見ている」という言葉が回答の中にあり、少し暗い気持ちも残ってしまいました。 神様や仏様がいるのなら、どうしてここまで至る前・・・あの時に助けてくださらなかったのか。あの時、あのひどい扱いをしてきた者たちに報いを与えて下さらなかったのか。もし私が間違っているというのなら、こうなるまでにそれを教えて下さらなかったのか。何ならば、今の私を救ってくださらないのか。何が足りないというのか。 そんな汚い感情を払拭することが出来ません。「神様仏様はそういう都合のいいものではない」、もしかすると「私が以前の何かの報いを受けているだけだ」、と言われてしまうかもしれませんが・・・。 そう考えると、 『本当に今まで通り真面目に誠実に生きる方向で大丈夫なのか?』 『今までの道徳をすべて捨て去るようなこともしなくていいのか?』 『それで「誰かに都合のいい人間」でなく、自分が良い人間となり、よき人生を送れるのか?』 汚い感情と一緒に、まだそういう迷いも多少残っています。 「よき人生を送れるかはわからないけど、無理に全部変えないで、今までのものをアップデートする形で十分じゃないかな」とは思うのですが。 神様や仏様に求めすぎるような汚い思いや、そもそも神様や仏様といった存在にどう向かいあうべきなのか。そして落ち着いた心で生きるためのアドバイスをいただけますと幸いです。

有り難し有り難し 6
回答数回答 1

薬師観音様にご挨拶した時のことについて

#お参り#仏像・仏様・阿弥陀・観音 初めて相談させて頂きます。 ありがとうございます。 観音様にご挨拶した時の不思議な体験について、何か気づきを得させて頂ければと思い投稿させていただきます。 よろしくお願いいたします。 先日、お客さんから、川見四季桜が綺麗だったよ、栗きんとんが美味しいよと教えて頂き、天気が良い日に母と出かけました。 可愛らしい桜と、綺麗に赤く染った紅葉と、綺麗な和紙の作品と色々見て、有難く大満足な1日でした。 桜と紅葉を楽しんでいたところ、川見薬師寺に続く階段を見かけて、ご挨拶しようと、急な階段でしたので慎重に登って行きました。 やっとの事で登りきると、正面少し奥に、薬師観音像が見えました。 その時、観音様は私から見て右真横を向いていましたが、一瞬で正面を向かれ、目が合いました。 明らかに目の前で起きた事への理解が追いつかず、何か見てはいけないものを見てしまったのではないかと暫く見つめ合ったまま固まってしまいました。 母に促され、観音様の目の前まで来て、先程のことは一旦離れて、感謝とご挨拶をしました。 先程感じた強い違和感は無いものの、やはり目が合い、微笑んでいるように見えました。 ふと、右真横の目線の先が気になり、確認しに行くと、お寺で飼われている、老犬がいました。 わんちゃんにも挨拶したあと、少し下った先にあるお清めの水が湧き出ている場所に行き、そちらの観音様にご挨拶した際も、やはり目が合い微笑んでいる感じがあり、また呼吸して生きている様に見えました。 その日は1日とても楽しい体験をさせて頂き、ありがとうの気持ちでいっぱいでした。 加えて、人生で初めての体験、感覚ばかりでしたので、不思議に思っております。 拙い文で申し訳ありません。 改めて、よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 6
回答数回答 1

観音様へのお願い事について

とある観音様が祀られているお寺にお参りに行った際の事ですが。 初めて訪れたお寺でした。 ウロウロしていると案内して下さる方が出てきて、一通り大まかに説明して下さって、そしてお参りする際に、 「~いくらでもお願い事して大丈夫ですよ~」 と、確か言った気がしました。 一瞬「聞き間違えたかな?…」と思ったのですが…。 観音様のご利益を検索すると、 「…あらゆる願い事を叶える、救いの手を差し伸べる、云々…」らしく載っているのを散見できます。 ですが、参拝者がお参りする際、お賽銭(お布施)って、5円、10円、100円…とか小銭をする場合が凡そ大抵だと思います。 知識がある人なら封筒包で千円単位を包む事はあると思いますが、少数かと思います。 ※ちなみに、神社へのお参りの場合、願い事の規模の大小に依ってそれなりの金額をお賽銭すべきであろぅ、といぅ意見/考え方を聞いた事はあります。 いくらでもお願い事して大丈夫…とは言え、小銭程度で5個も10個ものお願い事するって対価に合わないんじゃ…と想像したのですが、 「Q:そもそも観音様ってお賽銭の額が小銭だから云々…に関わらず、人々の願い事を個数に拘らずに聞いてくださる仏様なのだろうか?という素朴な疑問です」 まぁ、他の仏様、如来/菩薩/明王様…の場合はどうなのか、も詳しく存じ上げていませんが。

有り難し有り難し 15
回答数回答 2

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ