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自己嫌悪

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有り難し有り難し 38

こんにちは。
自分のことが嫌いすぎて人生を終わらせたい、と思ってしまいます。
私は本当に価値のない人間なんです。存在意義がありません。この世から居なくなった方がマシだと思います。
家族にも友達にも迷惑をかけて生きてきました。迷惑しかかけていません。誰かを救った、幸せにできたことなんてありません。
大学にまで行かせてもらい何不自由なく育ててくれた両親には申し訳ないですが、自分という存在をこの世から消したいです。21年も生きたので正直もう良いかなと思ってます。
自殺方法について調べてはいますが、家族や友人が悲しんでいる姿を想像してしまいなかなか実行することが出来ません。自分勝手だとは分かっていますが、私の事なんて忘れて欲しいです。
正直、この先自分を好きになることは無理です。来世に期待して今世は終わらせたいと考えていますが、まだ生きていたい気持ちもほんの少しはあります。
支離滅裂な文章で申し訳ありませんが、私はどうしたらいいですか。
胸の内を話せる場所がここしかありません。宜しければ回答お願いします。

2022年5月30日 1:52

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人は思ったことがその人そのものになるから思いを変える

大丈夫です。
まず「自分のことが嫌いすぎて人生を終わらせたい、と思ってしまいます。」
「私は本当に価値のない人間なんです。存在意義がありません。この世から居なくなった方がマシだと思います。」
ご自分でも回答を書いておられますが、思っているだけなのよ。(´👄`*)いい?よく聞いてね?
思うということは何か。
心に言葉やイメージのペンキスプレーを塗っちゃうことなの。
自分はダメだ、自分なんてダメだと思えば思う程、ペンキガスをスプレーしちゃうの。あっちにもこっちにも。街中やスラム街で落書きされまくりの壁を見たことがあるでしょう?アレと同じ。もともと何も描かれてなかったの。
本当にすばらしい絵画であれば、そんなところに書く必要はないし、落書きは落書きで乱雑ななぐりがきよ。(´-`*)
つまり、あなたも今日までアタマの中で考えてきたことを思い出してごらんなさい。きっと、自分をわるくののしるような言葉や否定的な思いを心の中で殴り書きしてきたんじゃないのかしら?
つまり、しにたいというペンキもアタシなんてダメだなんていうその思いそのものが実は毒汁なのよ。毒汁!一番気持ち悪いものを考えてみなさい。毛虫汁でもいい、オッサンのキモ汁でもいいわ。(´-`*)オエ
今から言うことをよーく自分を律しながら読みなさい。あなたがあなたを傷つけている時、それは…!あなた自身をあなた自身がそのキモい毒汁を自ら塗りたくっているようなものなのよっ!(❍👄❍*)そう!キモ汁を!自分で自分の心にィ!
だから、私が今日、今から「悩む凹むDISる苦しむネガティブる」時、ちゃんと冷静に自分をみつめてブレーキをかけなさい。ああ、そうか。悩むということ自体、暗いことを考えているということ自体が自分で自分にオッサン汁、毛虫汁を塗りたくっているのか!( ゚Д゚ⅲ)うげっ!きもっ!もう、やめなきゃ、二度と、しないしないしない!オエ――!
そのぐらいの防衛意識をもって、今日から肝肝ネガティブ想念を一ミリリットルも分泌させない事。それが心を苦しめないための大切な姿勢なの。キモ汁だけと。
いい?心って何でも考えていいわけではないの。
暗いことを、自分をいじめることを考えたら、それは当然自分を苦しめることになるの。死にたいという気持ちもそれが原因で作られているの。困ったときはいつでも電話どうぞ。心は元々何色にも塗られてないの。

2022年5月30日 8:38
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

悲しいね
僕らも死なれるのは1番辛いかも

家族の痛みも一生癒えることは無いしね
それが原因で家族は光を失ってしまう

でも死にたいって気持ちも否定できない

まずはもう少し脳の中をハスノハで話してごらん
支離滅裂でも良いから
相談でなくてもいいから

死ぬ前に頭の中くらい綺麗にしようね

死にたいって死ぬんじゃなくて
もう死んでも良いと思えるくらい
今まで言葉にしなかったことも
書き出して
みんなに聞いてもらって
頭の中を綺麗にしていって
それからでも死ぬのは遅くない

合掌

2022年5月30日 11:26
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有り難し
おきもち

個別相談可能
山形のそれは小さなお寺の住職です。 私は子供の頃いじめられ、社会からドロップアウトするなど金銭的にも苦しみ多面的な貧困を経験。 それらを乗り越えた事は、今では自身を照らす灯り。 色んな社会的活動をしてますが、 自然の中で遊ぶことが大好きで、子供達に体験活動やイベント、木工教室などを催しております。 お寺では草花葬墓地などの永代供養も宗派問わずお迎えしております。

質問者からのお礼

お礼が遅くなり、大変申し訳ございません。
回答してくださりありがとうございました。
少し心が軽くなったような気がします。まだもうちょっとだけ生きてみようと思います。
ありがとうございました。

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