絶対死ぬのになぜ生きるのか?
はじめまして。あのちと申します。
昔から死に対する恐怖が強くありましたが、最近は「最終的には死んでしまうのに、なぜ生きているんだろう?」や、
「今やってることも、持っているものも、勉強や趣味も死ぬのだから意味がないのでは?」
と考えるようになってしまいました。
この先どうやって生きていけばいいのでしょうか?
よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
言葉の循環
こんにちは。「考える」というのは基本的に言葉の操作ですが、それぞれの言葉には用法というか制限があります。
「生きているとは何か」と問えば、それは「死んでいないこと」あり、「死んでいるとは」を問えば「生きていないこと」となります。もし「生きている」がなければ「死ぬ」こともありません(機械など)。つまり、死ということの捉え方がなければ、生きているという捉え方も表現もできなくなるのです。
そうすると、「最終的に死ぬ」からこそ「今は(まだ)生きている」と言える…というのが生と死の関係です。
それだけ「生」があるのに対して、あなたが「でもそれは終着ではないから」と目を向けないのは自由です。しかし「私にはまだ生が残っている」と思うなら、その時間をどう過ごすか?に目を向けてもいいのではありませんか?
言葉は明らかに、生よりも短い歴史しかありません。言葉があって、そこから生が生まれたのではなく、生があって言葉(捉え方)がのちに生まれたのです。生物史においても、あなたの人生においても。
「死に対する恐怖感があった」とのことですから、おそらく「全てが自分から離れていく」こととして死を捉えておいでだと思います。私も死んだことはありませんが似たような理解はしています。だからこそ私はそれまでに「何を持っているか、ではなくどんな自分になるか」が課題なのだろうと思います。ここは(いまのところ)あなたとは異なるでしょう。
「どうやって生きていけば」への私からの答えは「その時に、自分はもう十分に生きた・やることやった」と死を受け入れられる自分になるように生きていく、ということです。
まぁ、これも言葉上の表現ですけれどね。
私も思います
拝読させて頂きました。
あなたのご質問はとてもよくわかります。私もあなたのご質問の様に疑問に思って生ききましたし、今も生きていると言っても過言ではないと思います。そして多くの人が大なり小なりあなたと同じ様に疑問に思って生きていらっしゃるのではないかと思います。
「何故死ぬのに生きなければならないのか、今やっていることも勉強も努力も趣味も全く意味がないのではないか?」あなたがそう思いのももっともかと思います。
その答えに明確な答えは見つからないのではないかと思いますし、明確に答えられる方はおられないのかと思います。あえて答えられる方がおられるとしたら仏様ではないかと思います。仏様は覚りを開いて全てのものごとの在り様も生きることも死ぬことも全てを体得なさっておられるのですからね。とはいえその仏様のお覚りを私達が全て理解することはこの世では難しいと思います。
今言えることはあなたが「何故死ぬのに生きなければならないのか?自分が良きることとは何なのか?自分の生きる意味があるのか?何の意味や目的があっていきるのか?」その答えを見出していくことがあなたの死ぬまでに見つけることですし、あなたが生きる意味や目的です。
その答えは千差万別かもしれませんし、大きく見ればほぼほぼ同じようなことかもしれません。或いは興味関心を追及していくのであるならば人それぞれに関心も興味も違いますから自ずと違ってくるかもしれません。
あなたが今生きる中でいろんなことを感じているでしょう。嬉しいことも楽しいもことも素晴らしいと思うことも感動することも、或いは悲しいこともさみしいことも辛いことも苦しいことも感じながら生きているでしょう。そう感じて何故そう感じながら生きていくのか生きていかなくてはならないのか?と疑問に思いながらその答えを見つけていくのも生きる意味や目的かもしれません。
宗教が存在する意味や目的はその様な疑問に答えていく為にあるのです。
あなたがこれから生きていく中で多くのことを見聞きしていろんな体験を通して自分が良きることや生きる意味や目的を何度も何度も問い直すことでしょうし、「ああ!これだ!」と見出すこともあるでしょう。そして「いったん何だったんだ?」と再び深い疑問を抱くこともあるでしょう。
どうかそれら一つ一つのこと体感も実感も大切になさりあなたの大切な人生を生きて下さい。