仏教における障害について
大学院で障害学を研究しようとしている者です。仏教について質問があり書き込みました。
現在、日本の障害の歴史について考察しているのですが、障がい者という弱者とお寺の関係は無視できないと思い、色々調べているところです。
ですが仏教といっても宗派がたくさんあり、どれを掘り下げていけばいいのかわかりません。
そもそも仏教における障害とは何か(前世の罰、今生での修行など)、そしてもし可能であれば異なる宗派同士の考え方の違いなどあれば教えて頂けないでしょうか?
私自身障害があるため、気になっている問題でもあります。
どうぞよろしくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
今後の研究を具体的に組み立てていくために
こんにちは。
「日本の障害の歴史について考察しているのですが、障がい者という弱者とお寺の関係は無視できないと思い、色々調べているところ」と書いています。この文面から、「障害学」と仏教の関係についておそらく研究し始めの段階にあるのだと感じました。
「仏教における障害とは何か」という問題は、非常にナイーブです。業論をきちんと理解することが大切ですし、業論を理解するには仏教の十分な基礎理解が必要不可欠になります。
この問いの理解に不可欠なのは、仏教学の理解です。「大学院」レベルの研究として一定程度高度な理解が求められるのはもちろんのこと、「私自身障害があるため、気になっている問題」とも仰っています。つまり、学問的客観的な理解とともに、主体的な学びにまたがっている関心事が、あなたにとっての「仏教における障害とは何か」という問題なのでしょう。
この意味では、過去の「障がい者という弱者とお寺の関係」を歴史として学ぶということと、自分が仏教という教えの中に身をおいて考える「障がい」は何だろうか、という深いレベルの広範な学びがあなたの求めているこのように思います。したがって、仏教学を基礎からきちんと学ぶための入門書を最低限数冊は読み、学ぶほうが良いと思います。
どれくらいのウェイトで「日本の障害の歴史」を研究課題にしていくかはこれからでしょうが、以上のような背景があることを念頭に、今後の研究を具体的に組み立ていってください。
そもそも釈尊の仏教(パーリ語の初期仏教)では
律蔵には障害がある場合は比丘出家できないなどとリストに入っています。比丘は在家の迷惑にならないように、在家を指導できるようにならないといけないので、無理はありません。
比丘になってから重い病気やけがを負うと、在家の医師が布施行で診てくれて、あとは比丘同士で支えます。還俗せよ、ということにはなりません。
ここまでは初期仏典から拾い集められます。和訳は昭和十四年の南伝大蔵経が全部そろっています。一部は現代語訳もあります。英語もPTS版なら全部そろっています。
業論はアビダルマで体系化したものと初期仏典の中で大まかに説かれたものがあります。初期仏典は中部152経のうちの100いくつめかの大業分別経と小業分別経です。アビダルマは、軽くまとめたアビダンマッタサンガハabhidhammatthasamgahaだけで十分でしょう。これにも英訳があります。和訳はスマナサーラ長老のブッダの実践心理学全七巻がお勧めです。
一般的に仏教世界で言われるのは、生まれつきであれ生後であれ、障害や事故などは前世の悪業が出ただろうと、しかしどの業がどう出たなどとまでは分からないので、気にしない、できることできないこと、助けてもらえることもらえないこと、それらの中で生きていきます。