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怒りを抑えられない。

回答数回答 1
有り難し有り難し 18

はじめてご相談させていただきます。
42歳シングルマザーです。
癇癪持ちの息子(7歳)と2人で過ごす連休が
地獄のようです。
事あるごとに反発し口答え・癇癪を起こす息子に対し暴言・怒りが一日中抑えられませんでした。息子は泣き疲れ寝ました。
児童福祉サービスも利用する時もありますが、この3連休は楽しくお出かけして、
預けずに頑張ろうと思いましたが、
朝から喧嘩。
家から締め出し、暑くなってきたので中に入れ、今度はわたしが息子を1人うちに残し、
2時間ほど車で頭を冷やしまし、
うちに帰ると、
息子の第一声はゲームやっていい?
でした。
呆れと怒りが再燃し、
お昼・夜ご飯も与えず、とにかく無視するしかできませんでした。
こんな自分をどうしたら
良いのかわかりません。

とにかく今は息子と一緒に居たくありません。

息子の父親は再婚しており、子供も生まれ、
引き取れないが、
義母は息子を育てられないなら養子に入れてでも自分が育てると以前言っていました。
息子は父親と戸籍上兄弟になる。
息子にとって何が幸せなのかわかりません。

一度怒ると気持ちを切り替えられない自分にもう疲れました。
死んでしまいたい。
どれだけ困っているのか
死んでわからせてやりたいと、
息子に対し仕返してやりたい気持ちが湧いてしまいます。

2022年7月17日 21:48

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人生「?5点」満点でいい

お子さんを天才や偉人に育てる必要はありません。
まずは深層心理にあるマイルールやアタシ流の子供の理想ビジョンを一度くしゃくしゃに丸めて捨ててしまいましょう。ポイ🚮
だって、それがためにイライラしたり自分が悲しくなるならそのストーリーや台本は要らないのです。
今のわが子の様子。
当時とは異なるたった今の我が子の様子を見てあげて欲しいのです。
別にお母さんの期待通りに生きるためにボクは生まれてきたわけではないよ!👶といいう魂の叫びも聞いてあげてください。
昨日近所のダイソーで見知らぬお子さんが欲しがっていた子供のおもちゃを持ってトイレの方に行きました。お母さんを探しに行ったのでしょう。お父さんが怖い人で「痛いよ!痛いよ!」腕を思いっきり持ち上げて子供に手を挙げて店中に鳴き声が響き渡りました。
私「(´-`*)ひでぇ親父だな。」
娘「(-_-)ほんと。」
親も子供も幸せになるために生きているのにどうして方向違いなことをしてしまうのでしょう。
子供の心を理解できないDVクソオヤジなら一緒にいない方がいいくらいなのです。
立場やルールよりも本当にその子が笑顔になれることをやってあげてましゅか?👶
ゲームも教育なのです。
ここでの文字も教育でちゅ。
大人も子供も一生勉強でちゅ。👶
我が家ではゲームもネットも好きなだけやらせてあげます。時間制限も設けません。18禁も外しています。真実を大人と子供と隔てず学ぶ。
小さな大人のルールでお互いに縛り付けて自分も子供も共倒れする様な80点以上でなければならない思考は捨てましょう。
人生、5点でも15点でもいいのです。
今のあなたの親子関係もいい点数とは言えないはずです。それでいいのです。
そうすると子供の方で飽きてしまう。
それでいいのです。
親が教えても学ばない。自分でわからせる。数年間ゲームにハマろうがそれをやりながら役に立つことの為にやるように優しく笑顔が保たれるように教え導くするのです。
親とか母親という立場を捨てて同じ目線で再スタートしてみましょう。
お友達、フレンドりなー親子でいいのです。
この世の共有物は平等なのですから。
怒るくらいならより良いアイデア散策の為にお電話ください。
子どもを起これば子供が病み、あなたの人間性が低下するだけです。
より良いアイデア探し、より良い教育・教導・共に学び合う為に生きましょう。

2022年7月18日 10:14
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下 覚元様

ご回答いただきありがとうございます。
なんの根拠もないマイルール
わたしの気分次第で押し付けていたんだなぁと気付きました。
息子の特性からか、
とても狡賢くどんどんつけあがっていくのでは…と心配はつきませんが、
押し付けすぎず、問題があるときは話し合って決めていくことも学ばせられる様、なんとか自分を抑えていきたいと思います。
ありがとうございました。

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