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仏教の好きな所はどこですか?

回答数回答 1
有り難し有り難し 7

仏教のどの教えがオススメとか、私は仏教のここが好きとか、もしあれば教えてください。

一人で仏教を勉強することに疲れました。

薬物依存の治療中の友達のいない一人暮らしの無職の男です。

よろしくお願いします。

2022年8月27日 17:16

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

本当の仏教は仏教思想とか宗派すら生じないところ ー仏法ー

「宗派」というものが仏教の主語になると宗派ナイズされた宗派色強め・宗派根性強めの後発仏教思想になってしまう。私は曹洞宗ですが、曹洞宗は道元禅師が曹洞宗とか禅宗と呼ぶなと説いておられますので曹洞宗ということすら「ない」のが本道です。大事なのは宗派云々よりも「正伝の仏法」であるかどうか。曹洞宗だから誰でも大丈夫ということでもないのです。そのぐらい正伝の仏法にお目に掛かれる機会はまれであるということです。一番大事なのは正法を拝聴する際、こちら側が私見・主観を持たずに法の内容そのものを解釈なしに会得すること。
全ての仏教が元々宗派はありません。主義思想も哲学もありません。それらはみんな後発であり、本来は「仏法(ダルマ)」ということがあるだけです。それを会得・拝聴した方がそれぞれの解釈や独自の視点で説いた面がありますが、それらも二次的な媒体的なものです。
本当に法を聴く、会得する=得法ということは仏教の解釈や説明を知識で知ることではなく、人間が人間の思考を休めた中で開かれる思考のお手付きなしの自己の真実を自ら見極めることだからです。

よって仏教を本当に学ぼうと思ったら仏教書すら不要になります。目にするとしても悟者・覚者の体験談やきちんとした内容を持つ指導書ぐらいなものです。仏教の思想は仏教❝思想❞であり仏教的な思想ですので副産物と捉えるべきでしょう。
よって、もし仏教の教えを何を学んでいいかわからないという時はこのサブカルチャー、2nd、副産物を一度「取り外してみる」という視点が大事です。
手ごたえがなけりゃツマランでしょう?
追求心、求道心を持つ。
仏教とはこういうものだろうという、先立つこちらの主観・思いこみこそが仏教に対して「そうでないもの」を生成する働きとなってしまうのです。
禅宗でも印可証明をお持ちの老師のもとに多くの人たちをご案内しましたが拝聴された方の大多数は主観👂で聴いてしまう。それもサブ。
私の心の聖地埼玉県秩父は秘境ですが、アニメの『あの花』が誕生して以来アニメファンからも聖地として認定されました。グッズやシールが貼られた商品なども売られています。それも素敵ですが私にとっての聖地はJAやアニメや商業が介入される前の元々あった秩父本来の美しさです。求めるべきはサブカルチャーや副産物ではないのではないか?という問いをもつ。それが答えを導き出してくれます。

2022年8月27日 22:48
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます

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