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亡くなった人に会う場所はどこですか?

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亡くなった人に会う場所って、お墓ですか?それとも仏壇ですか?

お墓参りに行くときに、仏壇に向かって「行ってきます」と「行ってきました」と挨拶するのも何か変な感じですけど…

最近では樹木葬なり納骨堂なりと、どんな形にせよ 手を合わせる場所であるお墓は購入しているようですが、子どもたちの間では、お墓に行けば故人に会えるし、仏壇は処分が困るという理由で購入しないでくれと言う人が多いそうです。

もし、仏壇を購入しない場合は写真とお花だけでも問題ないのでしょうか?

私としては、想う気持ちがあれば故人に届くとおもっていますが駄目でしょうか?

2022年9月11日 15:31

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

想う気持ちと、あなたの命は何に頼りますか。ご本尊を大切に

亡き人は、仏様のおそば(お浄土)にいらっしゃいますよ。お浄土に生まれていかれたのですもの。

ですから、人はご本尊(仏様)に手を合わせるのです。お念仏を申し、亡き人に遇っていくのです。お仏壇って大事ですよね。

お墓には、お骨が納まっていますが、そこに亡き人がいるのではなく、仏様のおそばです。ですから、お墓にも「南無阿弥陀仏」と掘るでしょ。〇〇家となっている場合は、懐中名号という立て掛けられる「南無阿弥陀仏」を安置してから、お墓参りをするのが正式です。もし、無いようでしたら、お墓参りの際も、南無阿弥陀仏とお念仏をね。阿弥陀さまのおそばに、亡き人が待っていてくださる場所です。

お写真に話しかけたくなりますよね。それも自然なことだと思いますが。浄土真宗の場合は、手を合わせるのはご本尊に。そして、亡き人を縁として、阿弥陀さまの仏法を聴いていくというのが、大切な時間の過ごし方です。

仏壇にも お墓にも、お写真のそばにも、
阿弥陀さまを想って手を合わせましょう。それが、亡き人に繋がっていく、会う仏縁になりますよ。

処分ということを考えて、阿弥陀さまをお迎えしないのは寂しいことですね。
私たちの大切な方を、お救いくださったのは、阿弥陀さまですのにね。小さくてもいいのです。仏様とのご縁を大切に。

また、お寺へお参りしていかれるのも大切ですよ。浄土真宗のお寺は、必ず法座があると思います。私のお寺も、月1回、年間20のお座があります。

想う気持ちだけでなく、あなたの命は、何に頼りますか。亡き人のためだけでなく、我が命の行方を考えていけば、私自身が仏縁を結ぶことが、いずれ必ず浄土で亡き人に遇えることに繋がっていきます。死んだら勝手に救われるわけではありません。仏様とのご縁を、しっかり結んでいくからこそ、浄土に生まれていけるのです。想う気持ちがあるからこそ、御本尊を大事にしていけるとも言えますね。

どうぞ、仏様のご縁を大切に。

2022年9月11日 18:15
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はじめまして(*^^*) 中田みえです。 教善寺 住職として、母親として...
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仏壇も墓も

生きている私たちの心が働いているのは体のどこですか?と、釈尊は問うて、誰も答えられないので自分で答えたのですが、その答えとは、痛みなどの感覚が生じたそこ、です。体のどこか、そのつど、違うのです。立ち上がって腰が痛くて「痛い」と思ったら腰に感覚≒心が生じ、それからは、もう体のどこでもいいのですが、たいてい脳だと現代人は思うでしょうけど、心がいろいろ考えます。
 しかも心は、体の中にだけいるわけではありません。何か考え事したりして自分のことがおろそかになって躓いたりしたら、その時は、心は体のことを忘れてどこかにいたのだと思います。
 亡くなった人も、本人のいるべきところにいます。移動できるなら、墓にお参りしたら墓に、仏壇にお参りしたら仏壇に現れるかもしれません、心だけなら見えないでしょうけど。
 墓も仏壇も、遺族の側から「ここで故人を偲ぼう」と決めた遺族の施設です。故人本人は、どこでどうしているやら、こちらには分かりません。
 釈尊の死者供養のやり方では、仏壇もお墓もない時代ですし、遺体は気にしないで、というのが仏教の最初期の教えでしたから、死者を供養したければ、その死者を思い出して、「これはあなたのためですよ」と故人への供養(功徳回向)であることを心や言葉に刻んで、布施でも何でもいいから何か善いことをしなさい、です。
 思い出すだけでも相手にはわかるかもしれませんが、それだけです。もし困っていたら大変なので、故人のためにも自分のためにも何か善行為をして、故人に「あげます」と、それを手向けるのが最初期の先祖供養です。後から形式が出来上がって、墓はこう、仏壇はこう、というふうに、しかも宗派ごとに形も解釈も異なるものがいろいろできただけです。
 という本質論を知ったうえで、では、自分はどういうふうにしようか、と、考えて実行するのが良いのではないでしょうか。

2022年9月12日 7:41
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初期仏教というか仏教本来の教えを学びつつ、その在家信者のあり方から見た日本...
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質問者からのお礼

父が亡くなり我が家で初めてのお葬式をし、葬儀屋さんの助けを借り見様見真似で仏事をこなしてきました。とても信心深いとは言えない家庭でしたが、家族が亡くなったらお墓と仏壇はあって当たり前と思って仏壇屋さんを回りました。お陰様でお墓は父が生前建ててくれていたので仏壇の購入だけで済みましたけど…仏教について何も分かりませんがこちらで少しづつ教えて頂こうと思っています。とてもお礼とは言えない文章になってしまいましたが、少しだけほんの少しだけ感じるものがありました。ありがとうございました。

「供養全般」問答一覧

深い懺悔と感謝

いつもありがとうございます。三月の桃の節句も過ぎ、お彼岸が近づいてきました。hasunohaの皆様におかれましては日々、健やかにお過ごしのことと思います。 一時期、私は人生をひっくり返すほどの思いに駆られたこともありました。今年のバレンタインを過ぎた頃から、今は家族のありがたみを強く感じるようになり、毎日思いやりに支えられ、相変わらず週7日休み無しで外での仕事に励んでいる今日この頃です。 毎日が平和で穏やかな落ち着いた空気、他愛もなく些細なことの積み重ねですが、それらすべてが本当に、職場も家庭も、そして治療院にも、良い人たちにご縁があったこと、ひとつひとつに感謝です。これからも日々の幸せを大切に育んでいくことが、ご先祖様への恩返しにも繋がる明るい人生への道標なのかなと有難く思います。 お世話になった治療家の先生に、しばらくお休みすることを伝えました。その節は本当に、この上なく尽くしてくれたことに深謝の限りです。つい先生の優しさに甘えてしまい、助けたい側と助けられる側の引き合う力がぐいぐい強くなりすぎてしまった節がありました。徐々に私の感情が不安定になり、体調も崩れてしまい、元の近所に戻しました。いろんな人に打ち明けた昨年から年末年始と引き換えに、この春先は自分自身とひとりで向き合う修正が必要になったこと…あらためて自己成長へと繋げる良いきっかけになりました。 今でも毎日、先生のことが心に浮かんできます。それだけ特別な存在であることには変わりありません。頂いた思い出、温かい言葉の数々が、前向きに仕事に取り組む原動力となってくれます。2月といえば、確定申告に自動車免許の更新の時期。両方ともクリアでき、特に下がると思っていた年収が微々たる上昇していました。驚きを隠せず、念願の学びのための貯金も着実に増えていること、とても有り難く思います。 他の先生からみても親しくなりすぎた故に、遠慮もなくなり、お互い言いたい放題で喧嘩状態にもなりました。本音を明かした(ぶつけ合った)ことは、それだけ相手を強く思うからでもあり、アンビバレントそのものでした。ひと月近く、間を空けた今、直筆の手紙で、お詫びとお礼、そして相手の未来の幸せを願う想いを伝えたいです。 共に成長しあえる良い関係でいられるよう、しっかりとした自分となるために、アドバイスいただけましたら幸いです。

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