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完璧主義から抜け出せない

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有り難し有り難し 24

初めて投稿させていただきます。
  

私は昔から、家族や他人に厳しく躾けられ、
それに答えるように自分のことを強く律してきた、真面目で完璧主義の人間です。
悪く言えば、考え方に柔軟性がありません。
多様性は大切にしたいし、人には人のペースがあるのはもちろん理解しているつもりです。しかし、他の人の不真面目な様を見て、(もっとしっかりやれるだろう)と、どうしても腹立たしく思ってしまいます。  
    
更に、私のこの性格は他責よりもよほど自責の念が強く、自らもいつも苦しまされています。
辛い時でも必死に自分に鞭を打ちながら、
(この性格をやめてしまいたい)、(もう少し手を抜いて生きていきたい)と思いながら、結局他の人に完璧主義を(心の中で)押し付けてしまうほどには完璧主義から抜け出すことができないのです。  
どうしたらもう少し、自分にも、他人にも、ゆとりをもった心持ちになれますでしょうか?

2022年9月17日 19:22

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

寿命(使える時間)に限りがある

あなたにも他人にも、この世で使える時間(寿命)には限りがあります。
その中で、全てのことを完璧にしていては、本当にやりたいことに使える時間が足りなくなる可能性があります。
みんなそれぞれ、人生や仕事で大切にしているポイントが違います。
あなたが完璧にやりたいことは、他人にとってどうでもよいジャンルだったり優先順位が低いものかもしれません。
また、私達はいずれ死にます。
たとえば自慢の高級車をピカピカに磨いても、あの世に車は持って行けません。
私達には欲の煩悩があり、車好きの人は、車を完璧にメンテナンスしたいという欲の煩悩によって、車を触っていると楽しくなっちゃって完璧に仕上げたくなります。
また、私達には怒りやプライドの煩悩があり、この車を綺麗にしておかないと他人から嘲笑されるのではないか、そんなのムカつくし恥ずかしい、という拒否感も沸きます。
また、私達には怠けの煩悩があり、本当は他に考えなきゃならないことがあるのに、目の前の作業に没頭した方が楽だから楽な方に集中したくなります。
たとえば明日は英語の試験なのに、なぜか今やらなくて良い数学の問題に没頭しちゃうなど。
「数学も完璧にやりたい」という言い訳で、苦手な英語を怠けている可能性もあるのです。

2022年9月18日 1:47
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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

より高い完璧性を目指す

仏教には菩提心という精神がある。
自分も救う。相手も救う。他人も救う。虫けらも、石ころも救う。宇宙も救う。救えなくても救うぞという志を持つ。するとその菩提心パワーであなたのその自分を苦しめるような愚かしい完璧主義の不完全さを悟る。どうせ完全主義、完璧主義ならとことん完璧さを求めるようになる。より程度の高い、クオリティの高い完璧主義を求めるようになる。
すると、心の要らぬマイルールが外れるようになる。
もっと高い人間性の追求。
自分が自分を損ねているようなこともしなくなる。
完璧主義と言いながらも、まだまだ完璧性と程遠いからその矛盾で自分が損ねられるのでしょう。
ご自分でもわかっておられるように、柔軟性をもつことも完ぺき主義のクオリティを高めることなのです。言い方を変えればお釈迦さまは究極の完璧主義に目覚められたということなのです。究極の完璧主義を目指せば自分を苦しめたり、自分を損ねるような心の動かし方はしなくなる。結果的にいわゆる自分を狭く囲む小さな完璧主義から離脱するようになるわけです。
その志を発心、発菩提心と申します。
別に出家をするとかこの世を捨てて山にこもるとか隠遁生活に入ることではありません。
自分が自分史上、最高、最上になろうという志。
その志を持つ。そのような心の動かし方をする。
その志を高めることがより豊かな人間性の追求につながります。
完璧主義を持つということはそれをすることであなたが心地よいからこそそのような心を選択・保持するはずです。
ならばこそ、そのルーツ、根底にある心は自分を愛する心のはずですからこそ、その自分を愛する心をいたわり、カスタマイズすることでより高い柔軟な快適な心に向かっていくことでしょう。
仏心とは誰かを傷つけることではありません。あなたは完ぺき主義を通して自分の安全地帯、快適な居場所を目指しているのかもしれません。
で、あればこそ、より安心で、安楽で、快適で、無問題な心を求めるべきでしょう。それが仏の心というものです。
この上なく素晴らしい心の追求。
その心を追求する心の向上を願う志があなたの完璧主義をさらに優れた心へと導いてくれることでしょう。
発菩提心陀羅尼
おん ぼうじ しった ぼだはだやみ

2022年9月18日 15:26
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがたいお言葉に感謝いたします。

いただいたご回答を、何度も読ませていただきました。
特に「自分が自分を損ねているようなこと」という箇所に、ハッとさせられました。私は「完璧にしなければいけない」という強迫観念のようなものに振り回されて、気づかぬうちに自分で自分を損ねていたのですね。

いま一度、じっくりと、自分が本当に大切にしたいものや生きる上での軸について、いただいたアドバイスとともに考えてみたいと思います。

お忙しい中、ご回答いただきありがとうございました。

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